2006/3/9〜5/29  
アメリカ合衆国横断の旅

-ニューサイクリング掲載版-


  yokoとロサンゼルスからルート66をたどって北米を横断した。
82日間、4200キロ。宿がないところでの道端野宿、高速道路走行、
yokoの腰痛発生、などなど。長旅ではいろいろなことが起きる。  
 



◆ (1)走り始め◆
準備
ロサンゼルスから東へ、昔のル−ト66に添って走ろう。計画はビザなしで滞在できる上限の90日間で、ワシントンから大西洋岸まで、およそ4500キロを走るもの。そこは果たしてどんなところだろうか。

地図帳の225万図をコピーして西から東までつなぎ合わせたものを作った。長さ2メートル。書いてある町の名前を頼りに宿泊地点や日程を決めてゆく。走り始めのカルフォルニアとアリゾナは走行用に州別地図を手に入れたが内容は地図帳コピーと大差なく、幹線道路以外の小さな道があまり描かれていない。単に省略してあるのか、本当にないのかがわからない。幹線道路はフリーウエイと呼ばれる自動車専用道路のはずで、自転車で走れるのかどうか、聞く人によって言うことが違う。
JACC(日本アドベンチャーサイクリストクラブ)の関東地区例会に顔を出し、情報収集に努めた。ロサンゼルスの南、サンディエゴ在住のサイクリスト 梶さんを紹介してもらい、メールでアドバイスをいただくことができた。「フリーウエイはわき道のない区間は自転車走行が許されるのではないか」というご返事が唯一の安心材料になった。
理科年表でルート周辺の月別平均気温をチェック。標高データは持っている地図には書かれてないので、インターネットでアメリカの地図をダウンロードして調査。結構手間がかかるので、前半のロッキー山脈を越えたところまで調べて打ち切り。グランドキャニオンに近いフラッグスタッフは標高2000メートル。寒いか。

自転車は、二人ともマウンテンバイク用ホイールに26×1.5のオンロード用タイヤをつけたランドナーを使用。装備はテント、マット、シュラフ、コッフェル、フライパン等のキャンプ用品一式。宿がないことも考えられるので野宿の用意が欠かせない。
食事はできるだけ自炊するつもり。コンロはアメリカについてからガス式のものを買うことにした。国によって使われている型式が違うので、日本から持っていっても使えない可能性がある。

工具のほかに、補修部品としてパッチセット、インナーワイヤ、チェーンコネクトピン、ブレーキシュー、チューブ、予備スポーク、チェーンオイルを携行。
各人が荷物をフロントバッグ、サイドバッグ2個、スタッフバッグ一個に入れる。バスや空港等での移動中は輪行袋があるのでフロントバッグをサイドバッグの中に入れる等、数を減らし全ての荷物をいっぺんに持てるように工夫する。
日本出発時の重量は二人の自転車が28.2キロ。二人の荷物が22.4キロになった。走り始めれば、これに食料と水が加わる。

出発
2006年3月9日。アメリカン航空のAA170便は17時35分に成田空港を離陸した。
夕食後、腹が痛くなった。トイレに行ってからは徐々に回復。葉子は足が痛いという。彼女は腰痛の持病を持っている。

ロサンゼルス
ロサンゼルスに同じ日の9時11分に着陸。時差が-17時間だから飛んでいた時間は9時間になる。曇り、気温13℃。入国審査は人差し指の指紋、顔写真撮影などで時間がかかった。
シャトルバンと呼ばれる乗り合いタクシーでロサンゼルスの町へ向かう。あちこちで客を降ろし、最後に我々が予約しておいたダウンタウンのモーテルKnights Innに到着した。ここに二泊して、コンロを調達したり、情報を集めたり、街を見物する。
アメリカ訪問はこれが初めてだ(葉子は二度目)。ロサンゼルス空港に降りたったときから、全ての寸法がふた周りほども大きくなったように感じた。車がでかい。モーテルの部屋もでかい。自転車も悠々部屋の中に入れることができる。


さっそく自転車を組み立てて町を散歩する。泊まったモーテルの周辺は生活のにおいのするごみごみしたところ。メキシコからと思しき人々もたくさんいて、スペイン語が飛び交っている。
スポーツ店でキャンプ用コンロを探すと、日本では見かけない大きな火口のガスコンロを売っていた。ボンベも大きい。しかし、それが米国では一番普及しているという。行く先々でボンベが手に入ることが必要なので、それを買うことにした。
夕方、どこかレストランに入って夕食をとろうと徒歩で出かけた。町の地図を持っていたのだが、宿の場所を読み違えていたらしく、迷ってばかり。結局モーテルまで戻り、宿の隣の日本料理店に入る。注文したてんぷら定食の分量の多さにおどろいた。

翌日、自転車でロサンゼルスの町の中を探索。まず、郊外まで走る近郊電車線のユニオン駅へ行く。明日、郊外まで電車で移動してから走り始めようという算段だ。自転車をそのまま載せられると聞いて一安心。
昼になってチャイナタウンへ。中華料理店が何軒もある。その中の一軒に入ると、ほぼ満席の賑わい。客はほとんどが中国系と思われる。チャーハン、ワンタンメン、マーボー豆腐を注文したが、これは失敗。どれも分量が多かった。それに肉類がほとんど入っていなかった。
払う段になり、請求14.6ドルに15ドルを置いたら、これだけかという調子で露骨にいやな顔をされた。レストランの支払いには税抜き価格に対し、15から20%のチップを出すのが常識だということが、その後にやり取りしたアメリカ在住の知人や梶さんとのメールで判明。

次にリトルトウキョウへ。日本の店と日本人多し。紀伊国屋書店でキャンプ場ガイドを購入。対象エリアはカルフォルニア州。
帰ってからモーテルフロントにあるPCでWebメールを使う。なんと日本語変換ができる。しかし日本語を打つことができるパソコンは後にも先にもこれだけだった。
夕食は買ったばかりのガスコンロを使ってサーモンステーキをこしらえた。弱火にすることができないのが欠点だ。

走り出し
3月11日(土)、6時起床。小雨が降っている。ユニオン駅に着いて、切符を買い、地下通路を通ってホームへ向かう。車椅子のために造ったのか、階段のほかにスロープが設置されているので自転車を転がしてホームに上がれる。2階建てのごつい車両には各車両に2台の自転車用スペースがあった。

走り出すと、ごみごみした下町らしい風景が流れる。並行するハイウエイには電車より速く車が走っている。47分乗ってクレアモント駅に着いた。州地図には鉄道が描かれておらず、現在地がわからない。雨がしとしと降っている。
トイレと道案内を請うために駅前のティールームに入る。昔の「ルート66」、今はフットヒル通りと呼ばれる街道が北に半マイルのところを走っているという。ポットに入れたアールグレイティーとクッキーをいただく。
上下の雨具をつけての出発となった。10数軒の商店街を抜けると住宅街。そしてフットヒル通りにでた。片側2車線で交通量多し。しかし、路肩が広いので走りやすい。道の両側には商店やレストランが続く。ロサンゼルス郊外のベッドタウンになっているのだろう。

今日の宿泊はキャンプ場を予定している。食料調達のためにス−パーマーケットを探す。ウオルマートを見つけたが、そこでは食料品を売っていなかった。次に見つけたスーパーマーケットでソーセージ、スープなどを購入。
昼になり、雨宿りも兼ねてファミリーレストランに入る。家族連れでにぎわっている。エビ料理と半量サラダを注文したが、食べきれなかった。請求27.2ドルに28.3ドルを払う。ファミレスでもチップは必要なのだろうか。基準からいえば少ないのだが、変な顔はされなかった(この時点ではまだ基準値を知らない)。ちょうど雨がやんで、出発。
さて、郊外に来たとはいえ、この付近、持っている州別地図に載ってない道路がたくさんあり、現在地がきちんと把握できない。怪しげな勘を働かせ、フットヒル通りを左折し、ルート15に入った。地図に描いてあるフリーウエイが見えるからそれを頼りに現在地を推定する。ところが突然舗装路がなくなり、石ころだらけの荒地になってしまった。自転車を押せば何とか進める。行けば何とかなるだろうと踏んで、のろのろ歩く。1キロちょっと歩いただろうか、ちゃんとした道路に出られてほっとした。そこはちょうどフリーウエイのインターチェンジ。ガソリンスタンド(アメリカではガスステーションという)の売店に入り、宿を訊くと次のインターにキャンプ場がある、と教えてくれた。おりしもあられが降ってきた。珍しいのだろう、店の人も肩をすくめている。

走り出すと、普通の道は工事中で通行止めになっていた。あとはフリーウエイしかない。入り口を注意深く見るが、自転車禁止のサインはない。思い切って初めてのフリーウエイに突入した。交通量は多く、車がビュンビュン走る。緊張と恐ろしさで前だけを見つめて走った。路側帯が広く、車と間隔があるのが救いだ。
次のインターチェンジでキャンプ場のマークを見つけ、そこで降りる。グレンヘレンパークというその公園に着くと、ゲートは出口のみが開いていてひっそりしている。そのゲートの建物に人がいた。大声で呼ぶ。もう業務を終了した雰囲気だが、こっちはそうはいかない。他に泊まるあてはないのだから。必死の思いで、どこでもいいからテントを張らせてくれ、というと泊まれることになった。料金は二人で13ドル。「夜間は冷えるからちゃんと着込んで寝るんだよ」という言葉が温かかった。

フェンスにかかっている番号あわせ式の鍵を開けてキャンプスペースにはいる。季節はずれなのか他に人影はない。あまりに寒いのでトイレ・シャワー棟の中にテントを張ることにした。水道からはお湯が出る。しかし、部屋そのものは暖房がなく寒い。気温は3℃。テントを張ってからソーセージを焼き、スープにご飯を食う。食事を済ませてさっさとシュラフにもぐりこんだ。 苦労の初日だったが、なんとか寝られることに感謝。もちろん寒いので雨具も着たままだ。この日の走行は45キロだった。


◆ (2)「砂漠で野宿する」◆

フリーウエイを走る
3月12日(日)。ロサンゼルスから雪の中を走ってたどり着いた、グレンヘレンパークキャンプ場の夜が明けた。夜中に列車の汽笛が何度も聞こえた。朝方は冷えてテントの外は3℃。寒かった。周りに見える山々が白く化粧している。
GPSで確認した現在地は北緯34 °12’48”、西経117°24’27”、標高615メートル。今回の旅はほぼ北緯35度に沿って走る計画だ。日本の京都と同じ緯度になる。

朝食を食べ、テントをたたむのに2時間かかった。8時半に出発。今日は大きな谷間に沿ってゆくので迷う心配はない。道にHistorical US66の標識がかかっている。すぐ横を長大なコンテナ貨車がのろのろと走る。 普通の道がなくなり、自然にフリーウエイに入った。自動車専用道路だ。その前のフリーウエイ入り口には歩行者、自転車、エンジン付き自転車禁止の標識があったが、ここは「自転車」の部分が黒く消してある。自転車の通行は禁止されていない、ということだろう。しかし、他に道はないのだ(少なくとも舗装路は)。禁止されていても走っていたにちがいない。

11時にレストエリアに寄った。マクドナルドがあり、昼食にする。見知らぬ土地でも知っている店だから安心して入る。アメリカの食堂は多くがチェーンレストランだ。その中でマクドナルドはどこへ行っても見つけることができる。生活のベースになっているようだ。客の中にはスペイン語を話している人もいる。アメリカは英語だけの世界ではない。
再びフリーウエイを走り、上り坂になり、1220メートルの峠を越えた。そこからは緩い下りに強い追い風が吹き、あっという間に20キロ先のビクタ−ビルに到着。48ドルのモーテルに投宿した。
大きな町だが、だだっ広くて中心地というものがない。夕食は牛肉とビールを買い込んで自炊にした。テレビでは異常な寒波のことを取り上げている。珍しいことなのだろう。  (走行50km)

モハベ砂漠に入る
3月13日(月)。6時起床。快晴。気温0℃、とえらく寒い。車の窓をがりがり引っかいて、ついた霜を落としている人がいる。
町のはずれにある、キャンプ場チェーンのKOAに寄り、ガスボンベのスペアを購入。中身が465グラムと重いが、次にどこで手に入るかわからないので余分に持つことにする。KOAのキャンプサイトのガイドブックももらった。
道の両側は低い木がぽつぽつ生えるだけの砂漠でほぼ平ら。モハベ砂漠に入った。 41キロ走ってフリーウエイから降り、道端でランチ。そして昼寝する。
眠りこけていたら、遠くで「Are you OK?」という声が聞こえる。横になっている我々を見て心配してくれた女性が声を掛けてくれたのだ。「OK, Thanks」と返事した。
その後で今度は車に乗ったカップルが「Outletはどこ?」と聞いてきたりする。アメリカ人の親切心、それと、見ればアジア系の人間とわかるのに外国人とは扱わない。多人種の国であることを実感する。

13時半、54キロ走ってバーストーに着いた。大手モテルチェーンのひとつBest Westernに投宿。90ドルと高い(簡単な朝食付き)。それだけに、部屋は立派だった。 部屋で調理するのを遠慮して前の駐車スペースで自炊する。豚肉と玉ねぎをいため、ワインで乾杯。そして米、ジャガイモ、スープ粉末を煮込む。 事務所で聞いたら、この先250キロのニードルズまでの間、宿は80キロ先のルドローに1軒あるだけだという。残る170キロを一日で走るのは無理だ。あさっては野宿になるだろう。(走行58km)
 
Tボーンステーキ 
フリーウエイを走っていると、Historical Route66のサインを見つけインターチェンジで降りる。ガスステーションと家が数軒あるのみ。

そこを出るとルート66といっても何もない。両側には乾いた荒地が広がり、耕作している形跡はない。廃屋もよく見かける。
路面も荒れていて走りづらい。10メートルくらいの間隔で舗装の継ぎ目が盛り上がっているのだ。走行スピードはわずか時速13キロくらい。 横を長い列車が走る。数えると3台の機関車が95台の貨車を引いていた。長さが2キロにはなるだろう。気温は20℃と暖かい。
昼食の後、ルート66があまりに走りにくいため、フリーウエイに入った。ここの区間は自転車禁止なのだが。 ところが、インターから100メートルも行かないうちに、パトカーがやってきた。スピーカーから「戻ってあっちの道を走りなさい」という声が聞こえる。まるでフリーウエイに入るのを待ち構えていたかのようだ。仕方なく道路の端をトボトボ自転車を引いて外にでる。

はるかにルドローの町が見えてきたとき、私の後輪の空気が抜けていることに気づいた。一度は空気を入れて様子を見るもすぐに抜けてしまう。しかたなくチューブを交換する。タイヤの内側を探ると、ワイヤーが2本も刺さっていた。バーストしてころがっている自動車タイヤの破片から出てくるワイヤーだ。これを抜いておかないとまたパンクする。

午後4時にルドロー到着。ガスステーション2軒、レストラン2軒、モーテル1軒のほかは何もない。フリーウエイを走る車が利用するためだけの場所だ。
明日の野宿のために5リットルの水を買い込んだ。生鮮食料品は売っていない。

シャワーを浴びて隣にあるレストランへ行った。Tボーンステーキを注文する。日本では骨付きの牛肉は決して見ることができない代物だ。葉子と分けあって食べる。ビールは置いていない。ドライバーのためのレストランだからとのこと。代わりにコーラを頼んだら、ばかでかい紙コップに入ってやってきた。(走行83km)
 
野宿
朝は10℃。今まで寒かったので暖かく感じる。レストランで朝食を食べて出発。強い追い風の中、ルート66を走る。路面状態は昨日より良くなった。

快調に46キロ走ってアンボイという村にやってきた。モーテル・カフェの大きな看板が立っているが、廃業していて建物に人影はない。長距離移動はフリーウエイを使うし、人口は希薄だから、今走っている一般道の往来はほとんどない。店を構えても客がいないのだ。店といえば、郵便局が道の反対側にぽつんとあった。
40才くらいの陽気な白人が、犬と一緒に裏の学校風の敷地から出てきた。人恋しいのだろう、周辺のことをいろいろ説明してくれる。ここはアメリカで一番暑くなるところだそうな。遠くの平原の黒く盛り上がった小山は500年前の火山。ここに来るまでの道の両側には真新しい溶岩が点在していた。
 
午後4時半、道端で野宿することにした。道中、やはり宿はなかった。道路から30メートルくらい入った繁みの中で道路から見られる心配はない。周りに人家もない。砂地でテントを張るにも具合よし。二人で野宿するのは初めてのことだ。
テントを張ってから夕食を作る。ご飯にカレー缶詰。ジャガイモ、ニンニク、ソーセージの炒めもの。ビールは無し。一本目のガスボンベがちょうど空になった。
午後5時20分で22℃と気温は高い。今日の走行は91キロ。よく走った。しかし葉子はくたびれきってしまった。 暗くなると空には満天の星が広がった。(走行91km)
 
砂漠脱出
昨夜、寝たときは寒くなかったが、気温はどんどん下がり、寒くなってきた。ロングパンツをはき、上下の雨具も着ることに。
朝、6時起床。テント内12℃、外は3℃。寒いわけだ。乾燥している内陸地域の温度差の大きいことを実感。

さて、野宿で水を使い果たしてしまい、残りは1リットルほどしか残っていない。昼間はまた暑くなるから、どこかで手に入れる必要がある。昨日、アンボイの男に、ここから30キロ先の地点に水を売っている店があると教えてもらった。ルート66を走る。途中、道路補修の事務所があった。水が手に入る場所を聞くと、聞いたところとは別の場所を教えてくれた。しかし、遠回りになるため、いかず。後で考えれば、その事務所で水を分けてもらえばよかった。
フリーウエイと交差するところに来た。店はフリーウエイを越えたところにあるはずだ。しかし、道は未舗装になり、しかも、「Not Maintained(整備されていません)」という看板が立っている。行っても無駄と結論した。しかし、水はあと0.5リットルほどしか残っていない。フリーウエイの交差に戻ったとき、葉子が止まっているトレーラーのドライバーに頼んで少し水を分けてもらった。正直ほっとした。

ここからフリーウエイは自転車禁止ではない。道が上りになった12時過ぎ、葉子が疲労でふらふらしてきた。車線から引っ込んだ空き地で昼寝する。 
人の住まない砂漠でフリーウエイはトラック(トレーラー)と乗用車がバンバン走る動脈だ。荒野のはるかを長い列車がゆく。その向こうには茶色の山並みが続いている。よくこんなところに自転車で来てしまったものだ。
 
昼寝ポイントからさらに上り、South Pass 2603ftに来た。高度計は780メートルをさしていた。越えてくだりになる。時速40キロで突っ走る。コロラド川が見えてきた。あそこまで下れば宿があるはずだ。Needlesの最初のインターチェンジに「自転車は出ること」という標識があった。14時17分。やっとモハベ砂漠を抜けたのだ。のんびり走って最初に見つけたモーテルに投宿。コロラド川のほとりだった。

モーテルの部屋にはコンロや冷蔵庫が付いている。スーパーマーケットで食料を調達し、立派なディナーとなった。ビールとワインもつけて。(走行76km)
 
アリゾナ州へ 
3月17日(金)。分厚いマットレスのベッドでぐっすり眠れた。アメリカはすべての寸法が大きくできている。ベッドもでかい。

コロラド川の流れを見に行く。澄んだ水がゆったりと流れる。上流には有名なグランドキャニオンがある。ほとりで老人がカモにえさをやっている。
 
今日は川沿いに40キロ先のブルヘッドシティまで行くことにする。橋を渡って、アリゾナ州に入る。平らだ。周りに畑が広がる。3月半ばで緑色はなく、まだ春は遠い。
交通量が多く、片側二車線だが、路肩がなく、追い越してゆく車、特にトレーラーが怖い。広い路肩のあるフリーウエイの方が走りやすいくらいだ。
地域の大学キャンパスで葉子が作ったサンドイッチをたべていたとき、時計表示が目に留まる。カルフォルニアよりプラス1時間。時計の針を進める。

ブルヘッドシティにきた。大きいが町の広がりが茫漠としていてどこが中心なのかわからない。一軒のホテルを見つけた。51ドルだからまあまあの値段。バスタブもあって文句無し。
 
走り出して一週間がたった。少しずつアメリカの地形、風景、人々に目が慣れてきた。モーテルに泊まり、スーパーで食材を買って自炊する、という生活スタイルが定着してきた。                 (走行38km)

◆ (3)「ルート66をゆく」◆

アメリカの走り方
モハベ砂漠を抜け、コロラド川を渡り、アリゾナ州のブルヘッドシティまでやってきた。旅を始めて9日がたつ。
2006年3月18日(土)。ぐっすり眠っていたら朝4時ごろ電話が鳴った。そして、誰かがドアをどんどんたたく。ドアを開けたら間違いだった、と納得したらしい。きっと仕事の仲間を迎えに来たのだろう。まだ夜も明けないというのに、迷惑なことだ。

今日は標高166メートルのコロラド川沿いから離れ、1000メートルの峠を越えなくてはならない。ルート68というハイウエイを登ってゆく。自動車専用ではないが片側2車線で路肩もたっぷりある。勾配は緩い。大きなトレーラーでも登れるようにしてあるのだろう。
アメリカで「フリーウエイ」というと、自動車専用道路のことで一般道路とは立体交差で接続されている。当然、信号はない。「ハイウエイ」は高規格の幹線道路だ。一般道とはたいてい平面交差になっている。
 
ごつごつした山並みに向かってひたすら登る。生えているのはサボテンや草、わずかな潅木のみ。荒涼としたところだ。
 
午後1時半、1097メートルのユニオン峠に到着。12℃、強い西風が吹き、寒い。遠くに平原が見はらせる。
250メートル下ってその平原に来た。人家がぽつぽつと見える。サクラメントウォッシュという涸れ川を渡った。ほとんど水が流れることがないのだろう、川原に鉄条網の柵が続いている。
平原の端でラスベガスからの道と合流した。高速道路のジャンクション並みに道路の作りがでかい。右端を走っているのに、右から合流してくるところがあり、止まって車の流れが途切れたときに急いで渡る。まだアメリカの走り方に慣れていない。

ちいさな上りを越えて、キングマンの町に入った。最初に見つけた質素なモーテルに投宿。35.2ドルと安いが、バスタブもあって申し分なし。暖房は壁に埋め込まれた縦長のガスストーブ。強力だ。
アジア出身と思われる若いマネジャーに聞いたところ、この先、走行予定の旧ルート66にモーテルや食料品店はあるということで一安心。本日の走行60キロ。標高は一気に1040メートルにあがった。
 
静かなルート66を行く
3月19日(日)。夜半に雨が降っていたが、起きると陽が出ていた。外は4℃と寒い。8時36分に出発。
昨日も買い物したスーパーに寄り、食料を調達。今日の行程では食材が手に入らない可能性がある。
 
小さな容器入りの塩とコショーのセットを買った。キャンプ用の塩、コショービンが残り少ないからだ。
 
キングマンから先、ルート66は幹線のI(インターステイトの略)-40から離れたところを走る。ルート66の方が遠回りになるが鉄道も同じルートを通る。I-40は上り下りがあっても最短距離を選んで造ったのだろう。
ルート66を行く。道の状態は良好で、非常に緩いのぼり勾配だ。往来はめっきり減った。
 
ハックベリーにぽつんとドライブインがあった。ルート66を売りにしている店。古いコーラの看板やガソリンの給油機が所狭しと並んでいる。店内にはプレスリー、マリリンモンローの写真やジュークボックスなどの骨董品が。
一杯50セントのコーヒーを飲み、持ってきたサンドイッチを食べさせてもらう。「ルート66」と縫い取りのある、アクリルのソックスを買った。自転車用にちょうどよい。以後、葉子の愛用品となる。
 
寒いので雨具を着て出発。谷間を少しずつ登ってゆく。ランチ(農場)の看板を見かける。突然、視界が開けた。平原だ。牧場があり、牛が草をはむ。
午後3時にトラックストンに到着。寂しい村だがモーテルが一軒あり、45ドルで泊まる事に。他に客がいる様子はない。結局、この日泊まったのは我々だけだった。
近くのマートに出かけてワインを買う。店の人が小さな窓を通して応対し、ほしいものを告げると、窓から渡してくれる。店の中に入ることはできない。安全対策のためなのだろう。辺鄙なところでこのような店を時折見かけた。ワインは7ドル。ビールにくらべてワインは高い。

モーテルに戻り、バスタブに湯を張っていると停電になった。お湯も出なくなる。聞くと、2時間は続くだろう、という。電熱器の暖房も止まってしまったので、寒くて仕方がない。1時間後に復旧。
部屋の引き出しに7個の銃弾が転がっている。物騒なことだ。
ベッドに入ったら腕がかゆい。何かに食われたらしい。もうひとつのベッドに移り、何とか眠れた。
本日の走行70キロ。標高1312メートル。

あられ降る寒い日
7時に起きると晴れ。外気温はなんと-5℃。雨具を着込んで出発する。今日の予定地は再びI-40と合流するセリグマンだ。
走り始めてまもなく、「フアラパイ・インディアン・リザベーション」の標識を見た。
道の両側は見渡す限り、枯れ草の原っぱ。
 
ピーチスプリングスにきた。ここは食料品店と、宿あり。地図に地名のあるところに、かろうじて人が住んでいる。店のレジを打っている人はインディアンらしい。
とてつもなく広々とした草原。所々で牛を見る。まっすぐな道が続き、20キロ先まで見渡せる。道端に雪が残っている。時折あられが降る。上は雨具、下はレーパン+レグウオーマ+半パンツのいでたち。薄い手袋なので手が冷たい。ここはこんなに寒いのか。

74キロ走ってセリグマンに着いた。徐々に標高が上がり、1595メートル。インターステイトが通っているだけあって町らしいところ。モーテルも数軒ある。
宿を決めてから近くのグローサリストア(食料品店)へ。ビール、牛肉、パン、アスパラガス他を買う。

宿に着くと葉子が親分になる。宿の交渉や食事作り。その分私は気を抜かしてもらう。

雪降りで昼に宿へ
3月21日(火)。今日はウイリアムズまで走り、バスでグランドキャニオンへ行こうという計画。ただし、バスや宿の手配ができれば、の話だ。宿の部屋から電話を掛けようとするも、うまくいかない。宿のオフィスに頼んでバス会社に電話してもらい、ウイリアムズからバスの便があることを確認。グランドキャニオンの宿は有料電話のため、掛けてもらえなかった。公衆電話はあちこちにあるが、電話カードが必要だ。

今日は向かい風。雪がちらつき、3℃。寒いのでレインパンツをはき、葉子に軍手を借りた。久しぶりにフリーウエイを走る。
12時にアシュフォークにきた。ガスステーションでコーヒーを飲んで体を温める。暖かい手袋も手に入れた。客のご婦人が「これから雪が降るから今日は走らないほうがいいわ。ここからウイリアムズへは登りになるし」という。おじさんが、「ここのモーテルは30ドルで安いよ。ウイリアムズは高いんだ!」とアドバイスしてくれる。
販売機で電話カードを買おうとしたら、別のご婦人がやり方を教えてくれた。みんなが我々の自転車旅行を見かねて、助けてくれる。アドバイスに従ってここで泊ることにしよう。

ガスステーション隣のモーテルに投宿。30ドルと今迄で一番安い。狭いがバスタブもある。宿に入った途端、本当に雪が降ってきた。(走行41km)

グランドキャニオンへ
3月22日(水)。6時15分に起床。外は一面の雪景色だ。道路にも雪があって、走れるのか心配になる。
公衆電話からグランドキャニオン行きのバスを予約した。受話器を上げて、音声の指示に従い、電話カードに書かれている固有番号を押すと電話が掛けられるようになる。日本のようにカードを挿入する方法ではない。電話ひとつでも苦労多し。
 
今日もフリーウエイを行く。路面はしっかり除雪されている。しかし、走るにつれて道端の積雪が増えてきた。昨日、アシュフォークでやめておいて正解だった。
 
昼前にウイリアムズ到着。スーパーマーケットもある大きな町だ。まず私が公衆電話でグランドキャニオンの宿に電話を入れる。
一泊130ドルと聞いて、「too much」と言ったら「bye bye」と言われ、切られてしまった。きつい言い方だったか。次に葉子が電話を入れる。ブライトエンジェルロッジに68ドルで泊まれる事になった。但し、一泊だ。
 
セーフウエイというスーパーマーケットで食料を調達してバス乗り場へ移動する。
バス乗り場はグランドキャニオンへの鉄道駅でもあった。レストランで、コーヒー、ケーキをいただく。周りには日本人がたくさんいる。団体旅行の一団にまぎれこんだらしい。おかげで料金を払わずに済んでしまった。

3時45分にバスがやってきた。15人くらいで満員になる小型のバスだ。ここで大問題発生。自転車は載せられないというのだ。箱に入れなければいけないという。輪行袋は持っているが分解するのに30分はかかる。
ドライバーのおじさんが、会社のオフィスに電話して協議する。葉子まで電話に出て交渉。何とか今回限りだ、ということで乗っけてもらえることになった。やれやれ。

バスは一直線の道を100キロ以上のスピードで走る。ほとんどアップダウンのない平原だ。いったいどこにグランドキャニオンがあるのだ。
公園の料金所を通過し、17:30にグランドキャニオン公園に到着した。さっそくブライトエンジェルロッジにゆき、予約できていることを確認。泊まれる事がわかってほっとした。古めかしい部屋は大きなベッドひとつ、バスタブ、ゆったりスペース、で快適。

さっそくグランドキャニオンを見物しよう。ロッジのすぐ脇に遊歩道が通っている。少し歩くと眼下に大峡谷が広がった。聞きしに勝る迫力だ。
グランドキャニオンというのは平らな大地に長い年月を掛けて深い谷が刻まれたもの。どうりで谷のふちに立つまで何も見えなかったわけだ。谷底まで標高差が1000メートル以上あるらしい。コロラド川の水流は谷が入り組んでいて見えない。
 
こうして、かの有名なグランドキャニオンにやってきた。明日も宿泊できれば周辺を歩き回ってみよう。

日本を出て14日が過ぎた。累積走行724キロメートル。計画距離は4500キロだから、まだ6分の1進んだだけだ。先は長い。


◆(4)「気さくなアメリカ人」◆

グランドキャニオン
ロサンゼルスから724キロ、グランドキャニオンにやってきた。グランドキャニオンの観光拠点は数箇所に限られていて、我々の来たのはサウスリムというところだ。
立っている大地はどこまでも平ら、見晴らすコロラド川を挟んだ数キロ先の向こう側もこっちと同じ高さの平原が続いている。しかし渓谷の淵に立つと、眼下にとてつもなく大きな谷が広がっていた。

グランドキャニオンは7000万年前に海底から隆起した地形に長い年月をかけてコロラド川が峡谷を形成したものだ。その規模は長さ400km、平均深さ1500m、幅が6〜29kmに及ぶという。
3月23日(木)。今日一日をグランドキャニオンの散策に当てる。大峡谷に沿った小道を空荷の自転車で往復した。自家用車の通行は禁止されており、代わりに乗り降り自由のシャトルバスが走っている。ところどころにある展望ポイントで降りて、自然の造形の迫力を堪能するわけだ。ハイキングしている人も多い。リスや鹿が人を恐れることもなく遊ぶ。はるか1400メートル下の谷底にちらりとコロラド川が見える。激流なのだろう、緑色の水流の所々が白く輝いていた。
 
翌3月24日。グランドキャニオン観光拠点の町ウイリアムズまで自走で戻ることにした。100キロと長いが、往きのバスで、あまり上り下りがないことはわかっている。
グランドキャニオン公園を出ると、松やしらびそのような針葉樹の森の中に真っ直ぐな道が走る。人家は見当たらない。朝は0℃と冷え込んだが、どんどん気温が上がり、途中で防寒に着ていた雨具を脱いだ。

49キロの中間地点に11時15分到着。これなら明るいうちにウイリアムズに着けるだろう。
路肩の草地に大きなふくろうの死骸を見た。車と衝突したのだ。
農場への入り口が広場になっていたので、休憩する。そこから奥へ未舗装の一本道が続いており、郵便受けが10個ほど並んでいた。
 
午後4時に、ウイリアムズ到着。大手モーテルチェーンのSuper8に宿泊。68ドル。(走行97キロ)

気さくなアメリカ人
3月25日(土)。再びフリーウエイのI-40を走る。路面はよく整備されていて走りやすい。高速道路を走ることにも慣れてきた。
 
レストエリアに入った。中心にトイレ棟があり、周りにはベンチが点在している。飲み物やスナックの自動販売機はあるが、お店はない。立て札にキャンピング禁止、とある。でも、いざというときには絶好の宿泊場所になる。トイレ、水、屋根などが手に入るから。
 
一人の50代くらいの物静かな男が我々に興味を持って話しかけてきた。どんな旅をしているのかと。アメリカ人は気さくだ。それでいて、べたべたしない。

昼過ぎにフラッグスタッフに到着した。大きな町だ。
ス−パーマーケットのセイフウエイを見つけて買い物する。従業員のチェイス君が我々を自転車置き場まで案内してくれた。日本語を勉強していて、日本へ行く計画だという。陽気でサービス精神旺盛だった。
買い物中には元気な40代のご婦人に声をかけられた。「自転車を買ったばかりなの」とおっしゃる。何人かの日本人をホームステイさせたそうだ。売り場の中で気兼ねなく立ち話をした。
 
今日はKOAという大手キャンプ場チェーンに泊まるつもりだ。15時に着くとオフィスはまだ開いていない。バスのように大きなキャンピングカーが何台も停まっている。
シャワー棟で愛犬を洗う父親と小学校の女の子を見つけ、挨拶を交わす。父親がお茶に誘ってくれたが、寝る場所を確保してからと思い遠慮してしまった。
寒いのでキャビンに泊まろうと思っていたのだが、「キャビンは空きなし」という張り紙があった。あきらめてモーテルを探そう。キャンプ場を後にする。
 
ぼろくて安いモーテルには幸運なことにガスコンロがついていた。買い込んだ牛肉とモヤシで立派な夕食ができた。
 
今日は4人のアメリカ人に話しかけられた。フリーウエイのレストエリア、スーパーマーケット、そしてキャンプ場で。西部の人は皆気さくだ。
アメリカとヨーロッパの住宅の違い。ヨーロッパ大陸の住宅は窓に必ず鉄格子がはまっているのに、アメリカの住宅には鉄格子が見当たらない。同じヨーロッパでもイギリスでは鉄格子は見かけない。防犯上の要求はそれほど大きな違いがあるとは思えないのに。家造りの伝統や歴史の違いがあるのだろうか。(走行65キロ)

大形トレーラーとキャンピングカー
3月26日(日)。6時半起床。テレビの天気予報を見ると、気温華氏40度(4.4℃)、西南西の風8マイルといっている。うれしいことに追い風の予報だ。
ルート66を走るうちにフリーウエイに入った。緩い下りで追い風のため、すべるように走る。ラクチン。
フリーウエイには大型トレーラー。乗用車、キャンピングカーがバンバン走る。
トレーラーと鉄道による貨物輸送の量は莫大なもの。アメリカの豊かさを思い知らされる。
 
道路の両側には見渡す限り赤茶色の荒野が広がる。全く利用していないように見える。
 
95キロ走って到着したウインスロウは小さいけれどスーパーマーケットのある町だった。
モーテルに泊まり、いつものとおり、部屋の外で料理しながら夕食を始めたら、ナバホのインディアンが一人やってきた。言葉が通じないが、にこにこと人なつこい。仲良くしたら、最後はお金をねだられてしまった。

3月27日(月)。隣の部屋に住む足の不自由なおじさんは愛犬と一緒に古いアメ車に乗ってどこかへ出かけた。部屋ではネコが一匹お留守番。きっと長くここに泊まっているのだろう。
 
旧道を行くと、リトルコロラド川を渡る。少し水が流れていた。水の流れを見たのはグランドキャニオン以来のことだ。
道端で休憩中に貨物列車が通った。数えたところ、ディーゼル機関車5台が127両の貨車を引いていた。通り過ぎるのにたいそう時間がかかる。木々の芽吹きを見つけた。このあたりは標高1500メートル、朝の気温が8℃。春がやってきたのだ。

規模が大きく、いろんな商店が並ぶ町、ホルブルックに到着。食料を調達し、ハードウエアショップでガスボンベとタイヤを購入。タイヤは26×1.75。重いタイヤだ。フリーウエイでバーストしたら、と思うとスペアタイヤを持っていた方が安心だ。
 
博物館を見学する。開拓時代の幌馬車、電話交換機、ポスト、薬局、古い写真、等々が保存されている。これがアメリカの歴史なのだ。ネイティブインディアンが職員を務めていた。明日は小雨の予報だ。(走行55km)
 
3月28日(火)。起きて外を見ると曇り。テレビが雨の確率は30%といっている。
ホルブルックの町の中もそうだったが、道沿いに、抱えられないほど大きな幹周りの木の化石がころがっている。化石の森国立公園(Petrified Forest N.P.)にやってきた。
ビジターセンターではがきや小さな木の化石を買い、休憩。木の化石は長い年月をかけて樹木の組織が二酸化ケイ素に置き換わったもの。二億年前の出来事だそうだ。

今日もだだっ広い平原が果てなく続く。牧草地になっているのだろうか。遥かに上部が平らになっている丘が見える。そのような形の丘のことをメサという。エッチングで断面を台形に整形したトランジスタのことを「メサ型」と呼ぶのはこれに由来しているのだ。

快調に走ってシャンバースにきた。ホルブルックの宿の主人に、モーテルがあると聞いていたところだ。果たして小さなインターチェンジを降りたところにモーテルが1軒。しかしそのモーテルの他には何もない、村ともいえないところ。宿代は83ドルと高いが選択の余地はない。

宿で教えてもらい、1キロも離れた雑貨屋でひき肉と卵を買い、更に走ってビールを手に入れる。集落といえるものはなく、あちこちにポツンポツンと家が点在している。 明日も80キロ先のギャラップまで行かないと宿はないだろう。(走行80km)

ニューメキシコ州へ
3月29日(水) 出発する段になって私の前後輪がともにパンクしているのを発見。累計5回目だ。チューブを調べると両方とも細いワイヤが刺さっていた。このようなパンクでは空気がゆっくりと抜けるので朝になってからあわてるわけだ。
ちょうどいい機会なので後輪タイヤを、購入した26×1.75に交換する。それまでの26×1.5サイズより太い分、荷物を積んでも安心して走れるからだ。新しいタイヤをはめるのにいつもながら、てこずってしまった。
 
そんなことで9時の出発となったが、走り出すと追い風に押され、快調に進む。
州境の手前、右手にペインテッドクリフという赤褐色のがけが延々と続いている。
 
フリーウエイのレストエリアで昼食をとった後、ニューメキシコ州に入った。すぐにレストエリアがあり、無料の地図とコーヒーをもらった。州が変わるとレストエリアの様子も違う。
追い風のおかげで早めに着いたギャラップは久しぶりに大きな町だった。モーテルが何軒もあり、スーパーマーケットもあった。ここで2泊し、しばしの休息としよう。(走行82km)

ロサンゼルスを出発してから19日。1220キロを走ってきたが、地図の上ではまだまだ西にいる。町にはインディアンの顔立ちの人々が多い。昼食に寄ったメキシコ料理店では、葉子が年とったインディアンの家族に話しかけていた。

洗濯、葉書出し、パッチセット購入、インターネットとメールチェック、食料調達、などなど。長旅をしていると雑用が溜まるので、休日も忙しい。

この先、分水嶺を越え、いよいよ大西洋の水圏に入ってゆく。標高も徐々に下がってゆくはずだ。


◆(5)「ガソリンスタンドに泊まる」◆

大陸分水嶺を越える
ロサンゼルスを出発して19日。1220キロを走ってギャラップにやってきた。町の真ん中を東西に鉄道が通っていて、大きなショッピングモールがあり、商店も多い。しかし、高層ビルは見当たらない。土地が広いからビルを建てる必要はないのか。

3月31日(金) 無愛想なインド人が経営するモーテルを出発。7時の外気温は3℃と寒い。
今日はこれから分水嶺を越えるというのに、腕時計内蔵の高度計はずっと2155メートルを示している。実に平ら。左にはRed Rock(赤岩)のがけが道路に沿って続いている。
昼過ぎにコンチネンタル・デバイドに来た。太平洋と大西洋の分水嶺だ。でも、道路はあくまでも平ら。回りも平らな草原が広がっている。標識がなければとても峠とはわからないところだ。
 
平らなまま、午後2時にソリュウ(Thoreau)に来た。人家や店が点在しているので、モーテルを探す。しかしここにはなかった。
訊くと、あと50キロ先のグランツまで走らなければならない、という。時間が早いから行けるだろう、と走り出したら、あいにく向かい風に変ってしまった。途端に苦しい走行になった。
グランツに日没寸前の午後6時20分到着。107キロの走行に葉子はよくがんばった。 見つけたモーテルは一泊22.5ドルと安さの新記録。それでも、バスタブがついていた。

翌日もここに滞在することに。鉱山博物館を訪れると、ウラン産出の説明あり。原爆実験の写真も飾ってある。第二次大戦時、原爆を開発したロスアラモス研究所はここから160キロほどのところにあるという。
 
我々から見るとガラクタばかりを売っているフリーマーケット(蚤の市)をのぞいたり、
 
インディアンが石釜で焼いた歯ごたえのある大きな丸パンを買ったりして、西部の生活の一端に触れた。
 
夕食後、酒場兼酒屋へ行き、飲ませるか?と訊くと、我々が既に飲んでいることに気がついて「売ってもいいが、ここで飲むのはだめだ」という。厳しい法律があるらしい。
Crown Royalというカナダウイスキーの小瓶を買ったが、宿に戻って少しなめたら空になってしまった。

ここまで、アメリカに来て23日間。使った費用を集計したところ、一日当たり96ドルだった(二人分)。ざっと一日1万円で生活していることになる。
ほとんど宿に泊まっているが、日本にくらべれば宿代が安いからその程度で収まるのだろう。

ガソリンスタンドで野宿する
4月2日(日) 朝、テレビを見たら時刻が1時間早くなっている。今日から夏時間シフトが始まったらしい。
ルート66を走る。路面は良好、追い風気味で快調に走る。50キロ地点のラグーナにガソリンスタンドを見つけて休憩する。

葉子が見るからにインテリのネイティブカップルと話をしている。黒い髪を三つ編みにして銀製の亀のペンダントをした50代の紳士、隣にはこの土地で採れるスカイブルーの石の彫刻をつけた妻。彼らは先生をしていて10年前に日本を学校視察で訪れたことがあるという。片言の日本語を話してくれた。
この中部一帯ではこうしたネイティブインディアンの居留区、彼らの作ったものを売るアクセサリー店をよく見かける。
 
ルート66は今までI-40と並行していたのに、ここから少し違う方向に伸びている。通りがかった車のドライバーに訊くと、またI-40に出られる、というのでそのまま進むことに。
しかし舗装がなくなり砂利道になってしまった。少し走りづらいものの、乗れないほどではない。しかし、心細い。人家は全くなく、放し飼いの馬がすぐそばを走ってゆく。
 
20キロ走って再び舗装の道に復帰し、ハイランドメドウズという村とはいえない人家の点在するところにやってきた。
唯一の店であるガソリンスタンドを見つけて、飛び込む。時刻は午後3時。今日はどこかで野宿の覚悟だ。
葉子が「どこかキャンプするところを探さないといけないの」と店主にいうと、「ここでキャンプしてもいいよ」といってくれた。ありがたい。店の建物とガレージの間の風の来ないところにテントを張らせてもらうことにした。
お礼の意味もこめて葉子はネイティブアメリカンの作ったカエルのネックレスを購入。水もたっぷり買い込んだ。
 
テーブルがおいてある屋根だけのガレージが我々の食堂兼居間になった。午後7時半ごろ、食事を終えてテント設営。
店主のジェッセはあれこれと心配してくれ、万一のときは、と自宅の電話番号も教えてくれた。
 
午後8時に暗くなる。することもないのでシュラフにもぐりこむ。初めは寒くない。走る格好に素足。しかし、夜がふけて寒くなり、靴下を履き、最後は寒くて上下の雨具を着込んだ。

世界を走るサイクリストがよく泊まらせてもらうというガソリンスタンド。これが初めての体験となった。(走行77km)

アルバカーキ
4月3日(月) 6時50分に明るくなる。何事もなく朝を迎え、内心ほっとして起き出す。テント内9℃、外は4℃。
遠回りだが平らだと聞いて、フリーウエイより南にそれる6号線をゆく。実に平らな平原。変化は左手に現れたグランドキャニオンを小さくした地形。水の流れにより大地が刻まれている。鷹2羽が車に轢かれた野うさぎの死骸をついばんでいる。並行する線路に長々と貨車をつらねた列車がゆく。
昼にリオグランデ川ほとりのロス・ルナスに来た。標高1500メートル。新緑が始まっている。
巨大なスーパーマーケットが我々を迎えてくれた。スーパーマーケットで気がつくことのひとつに、ハンディキャップを持った人が何人も買い物に来ていることだ。車椅子に乗り、普通に買い物をしている。買った荷物を車まで運ぶときに助ける人もよく見かける。
 
夕方、アルバカーキにやってきた。大都会だ。メキシコ式の壁が厚く、角が丸い土色の住宅をたくさん見かける。
大通りにバイクレーンを発見した。車道の端2メートルほどを空けて自転車の走行レーンを標示してある。車が駐車していても自転車が問題なく走れるための工夫だ。
実に自転車に優しい。実際にそこを走るのは我々だけだったのだが。
 
今日は無事にモーテルを見つけることが出来た。ベッドの上で寝られる。(走行92km)

翌日、北のサンタフェに向かって走り出す。道の両側には商店や民家が続く。
 
庭に姫りんごに似た鮮やかな赤い花が咲いているのが目にとまり、休憩していると、車で出てきた老婦人が「なにか困ってないの?(Anything OK?)」と気を使ってくれた。ホッと緊張が緩む。

道には「旧道ルート66」(Histric Route66)の看板が立っている。メインルートからそれた、と思ったのだが、ここも古い道なのだ。
どの道を行くべきか迷っていたら、タイミングよくロードバイクに乗る一人のサイクリストが近づいてきた。ロスから大西洋まで旅していると言うと、「素晴らしい、うらやましいな」(Oh my goodness! I envy you)。
道が合っていると教えてもらい、安心して走り始める。
 
午後1時、ベルナリーヨに着いてガソリンスタンドで宿の状況を聞くと、この町を出たら75キロ先のサンタフェまでないという。今日はここで泊まりだ。
R550との交差点にモーテルやファミリーレストランが固まって出来ていた。町の中心から少し離れたところに、新しい商業スポットが出来るのだ。Days Innに投宿。大手モーテルチェーンだ。(走行33km)

指定保留地で写真を撮って法に触れる
4月5日(水) 一般道の313号線を北上する。サンフェリペという小さな村。家々の庭に高さ1メートルくらいの土のドームを見かける。パンを焼く釜だろうか。
村の中心の交差点にやってきた。葉子が歩いて釜のある風景を撮っていると、車が泊まり、運転席のおばさんが窓越しに怒鳴りはじめた。ここでは写真を撮ってはいけない。撮影禁止の看板を見なかったか。と言っているらしい。それらしいものには気がつかなかったのだが。

再び走り始めたらすぐに車が一台、追い抜いて前で止まった。普段着の男が二人、車から降りてきた。穏やかに自己紹介をして、用件に入る。「ここでは写真を撮ってはいけない」と。すぐにシェリフもやってきた。やれやれ大ごとになってきたぞ。

ここは先住民の指定保留地(Reservation)で写真やスケッチは禁じられており、違反には罰金もあるのだと言う。フイルムを出せ、と言われた。
葉子が「我々が持っているのはデジタルカメラなの、データを消すわ」と提案し、OKがでた。二人のカメラから撮ったばかりの写真を消去する。こうして一件落着。放免されてほっとする。
保留地を出るとき、道端に禁止事項を明示した看板が確かに立っていた。写真、スケッチ、録音、アルコール飲料の保有、等が禁止と書いてある。きっと、この地域に入ったところにも立っていたのだろう。

その後、一般道がなくなり、フリーウエイを走ってサンタフェへ向かう。
強い追い風に押されてサンタフェに入った。スペイン領の時代に建設された歴史ある町だ。人口5万、標高2000メートル。
中心部へ着く前にモーテルへ飛び込むと、そこは板垣さんという日系人が経営するローカルな宿だった。
片言の日本語をしゃべる。彼は第二次大戦中、両親が生活していた日本人収容所で生まれたという。
我々の自転車旅行を見てあきれている。アメリカを自転車で横断する、ということは考えられないことなのだ。
 
ここまでの累積走行は1600キロ。ざっと全行程の三分の一を走ってきた。(走行76km)



◆(6)「次第に緑豊かに」◆

豪華貸し別荘
4月6日(木) サンタフェの朝は小雪が舞っていた。大陸の分水嶺を越えたのに、再び2063mと高いところに来ている。歴史的都市を一回りしてから走ることにしよう。
葉子の希望でアメリカを代表する女流画家であるジョージア・オキーフの美術館を訪ねた。多くの来館者でにぎわっている。代表作はなかったが小さな裸婦の水彩画が美しい色で描かれていたという。
サンタフェの中心部は日干しレンガで作られた建造物が立ち並んでいる。角が丸みを帯びた四角形で明るい茶色の建物が続くさまは他の町とは違う別の世界に入った気分にさせられる。
 
町の中心にある広場(プラザ)に来た。広場の一辺には40人ほどのネイティブインディアンが陣取り、アクセサリーを主としたみやげ物を売っている。
ビジターインフォメーションに寄り、今日の予定地、ペコスの宿情報を訊く。パンフレットをもらい、宿がありそうだ、ということで一安心。
 
往来の少ないオ−ルド・サンタフェ・トレイルを走り、徐々に標高を稼いでゆく。最高点は2300メートルだった。
ペコスに来た。家がポツポツある静かな山村。パンフレットにある宿は見つからず、代わりにパラダイスインという貸し別荘を発見。入ってみると大きな住宅だ。4つの寝室に広い居間、台所、食堂が設備されている。
 
100ドルで台所も洗濯機も使ってよいという。アメリカの住宅をのぞくのにいい機会だ。それに宿はここしか見当たらなかったので、選択の余地はない。
 
近くのグローサリ・ストアで牛肉とビールを買い込み、葉子がキッチンで調理する。アメリカサイズで調理台がとんでもなく高い。大きなテーブルで優雅に夕食を楽しむ。
 
家の間取りすべてが大きい。居間の広さを測ると約30畳もあった。久しぶりに洗濯機を使い、乾燥機で乾燥。大型テレビをみる暇もなかった。
ちょっぴりアメリカ式生活を体験した。(51km走行)

キャンプ場チェーンのKOA
4月7日(金) 朝食はベーコン、トマト、ゆで卵、アップルジュース、コーヒー。それに食糧庫にパイを見つけ、オーブンで焼いていただく。快適だった宿を8時45分に出発。
今日もルート66を行く。下ったかと思うとまた登る。道の両側に低い針葉樹が生えている。64キロ走ってロメロビルに到着。といっても、ガソリンスタンドが1軒あるだけの寂しいところ。そこでベーコンやパスタなど、最低限の食材を購入してから、キャンプ場のKOAに入る。

「KOA」は全米に展開するキャンプ場のチェーン店。キャンピングカー、テントエリア、のほか、キャビン(小屋)があり、トイレ、シャワーが完備されている。テント使用で26ドルと値段は安くない。
 
夜半に気温が下がり、寒さが耐えられなくなってきた。大きい方のシュラフに二人で入り、寒さをしのぐ。窮屈で身動きもままならないが、おかげでポカポカしてきた。翌朝の外気温は-3℃だった。

とてつもなく広い牧場にシカがあそぶ
4月8日(土) 今日のコースは南へ下り、再びI-40に合流する。宿のありそうな町までは約100キロ。
「ハイウエイ」と呼ばれる高規格道路はポツリポツリと農場があるだけで、車もほとんど通らない。見渡す限り、牧草地が続き、道路は遥かな地平線に消えている。その向こうの町にいったい何時に着けるだろうか。
牧草地に野生の鹿が遊んでいる。家畜は見当たらない。それほどに広く、耕したり、刈り取ったりという耕作風景はなく、自然に任せているように見える。
 
100キロを走り、I-40沿いの町サンタローザに到着した。荒野の中にぽっかり現れた街。人口は2500人だという。モーテルやマクドナルドなどのチェーンレストランが並んでいる。旅人にとって現代のオアシス。大型トレーラーが溜まるドライブインもあった。シャワーなどの設備があり、運転手はそこで休憩し、トレーラーのキャビンに設けられたベッドで眠るのだ。

ビリーザキッドの町
4月10日(月) サンタローザに二泊して出発。朝の気温が9℃と暖かい。標高が1428メートルと下がってきたせいもあるだろう。昼間は暑く感じるほどだ。I-40からそれて南へふくらむことにする。その方が宿を見つけやすそうだからだ。広い道を独り占めして走る。
今日は横風。さえぎるものもない草原が続くので、風が吹くとつらい。
フォートサムナーにやってきた。ビリーザキッドで有名な町だ。ビリーザキッド・カントリー・インを見つけた。看板に書いてあるとおりの40ドルで宿泊。
どことなくアメリカ西部の趣がただよう。人口は少ないのだろう。学校や郵便局もあるのだが、どこか閑散としている町だった。(走行74 km)
 
風に押されて100キロ
4月11日(火) 今日も100キロと長丁場。昨日に比べてもっと平坦な道をゆく。路肩も2メートルと広く、走りやすい。
走り始めて1時間、西風が吹き始めた。ありがたい追い風だ。今日は一日この風に押されて走ることが出来た。発電用の風車が何十台も建っているわけだ。
前方から大型トレーラーが2台やってきた。追い越そうとしている後ろのトレーラーが我々に気付いて抜くのを止めた。すれ違うときに「ありがとう」のつもりで手を振ると、彼も笑顔で手を振った。挨拶が通じるとうれしい。
昼にメルロースというところで店に入り、コーヒーとハム入りスナックを買って食べる。暑くなり半袖一枚だ。
 
緑の牧草地を見た。長さが数百メートルはあろうかという大規模潅水装置が水をまきながら、しずしずと移動している。
依然として牧場が続くが、人の匂いが濃くなってきた。土地の生産性が高くなってきたのだろう。
 
追風のおかげで96キロを5時間で走り、クロビスに到着。交通警官にモーテルの場所を教えてもらう。モーテルは町の入り口など特定の場所に集中して建っていることが多いので、見当をはずすと見つけられないことがある。
夜、8時に寝たが寝付けない。夜、コーヒーを飲んだのがいけなかったらしい。零時を過ぎてウイスキーを飲み、やっと寝る。

高密度牛工場
4月12日(水) 朝の気温が12℃と暖かい。朝食は宿で出してくれるドーナツとコーヒー。「朝食付き」で出されるのは、たいていドーナツだ。初めのうちは珍しくて喜んでいたが、何度か食べると飽きてしまった。アメリカ人は飽きないらしい。
出発してすぐ、テキサス州に入った。道端の草地にイタチくらいの動物が地面に掘った穴からたくさん顔を出す。プレーリードッグか。

遠くに黒い土地が見える。ゴミ捨て場かと思いながら近づいてゆくと、なんと牛がぎっしりと囲われている。囲いに沿って置かれたコンクリート製のU字溝にエサが入れてある。数千頭はいるだろう。屋根はなし。大規模、高密度の牛工場。
ここで肥育して出荷するわけで、最大効率を追及している。初めて見たのでびっくりしてしまった。
昼ごろ厚のタイヤがパンク。またしても自動車タイヤの破片のワイヤが刺さっていた。今回の旅で9度目。それもすべて厚のタイヤだ。葉子は一度もパンクしていない。彼女が使っているタイヤはスペシャライズドの「ニンバス」というもの。明らかに有意差がある。
91キロ走ってヘレフォードにつき、安そうなモーテルに宿泊。

車は決してクラクションを鳴らさない
4月13日(木) 朝の気温が14℃。標高1152メートル。ずいぶん下ってきた。今日も追い風に助けられて順調に走る。
フリーウエイの側道をゆく。大都市のアマリロ圏に入り、住宅や商店を切れ目なく見るようになる。車は決してクラクションを鳴らさない。前がつかえたり、いらいらしても。騒音防止条例があるのではないか、と思わせるほどだ。自転車など、弱者にとってはうれしいこと。
59km点で住宅団地入り口の芝生で昼寝。土地を囲って高級住宅地を形成している。
アマリロは大きな町だ。スペイン語で「黄色」の意味だという。ロサンゼルスを出てから一番大きい町ではないか。宿を探しながら走り、もうすぐ町外れというところで一泊28ドルと安いモーテルを見つけた。けっして豪華ではないがシャワー、トイレは設備されていてキャンプ場よりも快適。

アマリロ滞在
4月14日(金) 連泊して見物や用事を済ませることにする。初めにビジターインフォメーションを訪れ、この先のルートの宿情報を入手。100キロ以内に宿がありそうだ。
インフォメーションで教えてもらったバイクショップ「ヒルズスポーツ」を探し当てた。最高級グレードの自転車こそ置いてないものの、必要なものはしっかりそろえてある。マウンテンバイク用でフレンチバルブのついた薄手のチューブと小箱に入ったパッチセットを手に入れた。両方ともスーパーマーケットの自転車用品コーナーには置いてない品物だ。

インターネットカフェを探したが見つからない。聞きまわったところ図書館で利用できることがわかり、一番近い図書館を訪れる。5ドル払ってインターネットの利用会員になり、PCを一時間使う。この後、行く先々で図書館のインターネットを利用した。使用時間の制限はあるが、たいてい無料で使わせてくれる。日本人でも。

モーテルに戻り、いつもどおり自炊の夕食を食べた後、葉子が急に腰が痛くなったと悲鳴を上げた。腰椎すべり症がぶり返したのだ。痛みで歩くこともままならない。走れるようになるまでアマリロに滞在しよう。

狭くてぼろいモーテルの部屋も長居をすると我が家のように感じる。実際、ここを「住みか」としているらしき住人もいる。
 
滞在5日目、腰痛がよくならないので病院へ行くことにした。紙に英語で住所、氏名、症状をしたためる。ところが、自転車で走り始めると腰が痛くないという。メディカルセンターの前まで行ったが、結局病院へ入るのはとりやめに。
帰る途中、ウオルマートで買い物。葉子を車椅子に乗せて売り場を回る。ひき肉、パスタのほか、私の半パンツとTシャツを購入。長旅だと着る物もすり切れてくる。
葉子は車椅子から降りて、再び自転車に乗り、モーテルへ走った。
ここまで40日経過。2172kmを走ってきた。



◆(7)「大都会で宿探しに苦労する」◆

竜巻シェルター
4月18日(火) テキサス州アマリロに到着して2日目の夕方、葉子が腰痛の悪化で動けなくなった。昼間もベッドの上で過ごし、少し具合がよくなると自転車で町を散歩した。スーパーマーケットでは車椅子に乗って買い物をする日々を送った。

滞在6日目の朝、腰痛は治まっていないが何とか走れそうだという。恐るおそる出発することにした。
 
我々が泊まっていたところはアマリロの端っこだったらしく、走り始めてすぐに人家が途切れ、牧場や畑地が現れた。24キロ走ってI-40に合流。テキサスで初めて走るフリーウエイだ。歩行者、自転車の禁止看板は見当たらない。

パーキング点を見つけて休憩する。屋根付きベンチに鉄製のバーベキュー炉が設置されている。しかし、水道やトイレはない。周りは一面の草原で見晴らしがよいというのに。
 
午後2時半、69キロ走ってグルームに来た。小さな村だが、モーテルがぽつんと1軒あり、泊まることにする。
住宅は一つひとつの区画がゆったりしている。300坪くらいあるだろうか。垣根はない。いかにもアメリカ的だ。

4月19日(水) 道端の草むらに緑が増してきた。季節が確実に進んでいる。
 
フリーウエイを走り、27キロ点でレストエリアに入った。スナック等の自販機がある。
建物内の一角にトルネードシェルターがあった。竜巻を避けるためのもの。テレビでも、よく竜巻がどこに現れそうだという予報を流している。自転車で走っているときに巻き込まれたら、ひとたまりもないだろう。
 
フリーウエイを降りて一般道を行く。「オールドルート66」だ。道幅が狭く、舗装も痛んでいる。住む人もなく、朽ちるにまかせた家が伸び放題の木々の間に見え隠れする。
ごく初期につかわれた「ルート66」なのだと想像する。でも、往来はほとんどないし、自転車のスピードにはぴったりの道だ。「1904年設立」と看板に書かれたバプティスト教会の前で昼寝した。
50キロ走って午後2時半にマクリーンに着いた。土地のモーテルに投宿。そこのマダムが世界地図の日本にピンを一本刺す。日本には既にピンが刺さっていた。誰かが泊まっていったのだ。
 
夕食に隣のステーキハウスへ出かける。葉子は近い距離を歩くのにもつらそうだ。マクドナルドを筆頭とするチェーンレストランばかりが目に付くこの国にあって、個人経営のレストランは少数派だ。

厚は8オンス(226グラム)、葉子は7オンスのステーキを注文。出てきた肉は予想外に大きい。ポテトフライもどっさりあった。もうひとつの予想外はアルコールを置いていないこと。期せずしてビール抜きの日になる。
午後6時と早い時刻だったが他にもちらほらお客が来ていた。
 
ビールを売っていない町
4月20日(木) 前日のステーキハウスから持ち帰った残り物を食べて出発。いつの間にか高い木が点在している。樹木があるとうれしい。草地だけだとさみしいものだ。
シャムロックに来た。モーテル多し。まだ時間は早いが泊まることにする。
町の一番大きな交差点に立つモーテルに寄り、値段が49ドルと聞き、「他を当たる」というと45ドルにしてくれた。
ビールはどこに売っているか、と訊くと、「この町では売っていない」と言う。ドライカウンティというそうだ。アルコールは隣の町に買いに行くらしい。そして「どのくらい欲しいんだ?」と訊かれ、小さい缶ビールを二つ只で分けてくれた。売るのは禁止でも、飲むのは禁止されてないらしい。

食料を買ったスーパーでは、兵役で1946年から3年ほど日本にいた、という79歳の老人に声を掛けられた。その当時、日本各地を回ったという。我々を見つけて日本を思い出したのだろう。人なつこく話し、離れがたく去っていった。

オクラホマ州へ
4月21日(金)  オクラホマ州に入る。今日は一般道を走ることが多かった。人が多く住むところでは一般道が通っているので、フリーウエイを走らなくてすむ。中央分離帯をもつ片側2車線だが、往来は少ない。昔はこれが幹線道だったのだろう。
 
賑わいのある町セイヤに着いてモーテルに宿泊。今日は商店でビールを売っていた。
夜半に壁の向こうの部屋から夫婦の口論が聞こえてきた。ぐっすり眠っていたのに安眠妨害。隣の部屋との境界は薄い板一枚だけだったらしい。

交通実態調査
4月22日(土) 今日はアースデイ。DDTやCFCが禁止された日はいつだったか、と放送している。
エルクシティのはずれ、フリーウエイに入るところで葉子が昼寝を始めたので、フリーウエイを走る車の台数を数えてみた。

<I-40 東行き、11:34から7分間>
トレーラ 25台(42%)
トラック 2台(3%)
ピックアップ 9台(15%)
乗用車 22台(37%)
RV(キャンプカー) 1台(2%)

トレーラが一番多いということが驚き。今日は土曜日なのに物資は大動脈を休みなく流れ続ける。RVが少ないのも意外だった。計測時間が短く精度が悪いかもしれないが。

道端にはアルマジロの死体を時々見かける。交通犠牲者のひとりだ。 76キロ走ったクリントンで宿泊。
今日で45日経過。予定期間の半分が過ぎた。走行累計2463km。

4月23日(日) 8時の気温が21℃。標高は464メートルまで下がってきた。半袖、半パンツで走行。
午後3時半、フリーウエイ沿いのKOAキャンプ場に入った。4時に受付が始まる。オフィスで待っているとハーレー2台で熟年夫婦がやってきた。奥方のオートバイも1250CCと大型。ラスベガス在住でフロリダまで走って帰る途中。6000マイル走った、というから約1万キロになる。
虫に食われて困っていた様子なので愛用のかゆみ止めを差し上げた。

木立の中にテントを張る。そばのテーブルで夕食。夜も冷え込まないので快適だった。
 
葉子は疲れ気味なるも今日は痛み止めの薬を飲まなかった。旅行の日程はひと月半を残している。痛みがひどいときに薬を飲むようにと医者に言われているが、毎日飲むだけの薬は持ってきていない。果たして最後まで薬が持つだろうか。(走行71km)

大都会の宿探し
4月24日(月) リスに見送られてキャンプ場を出発。
走り出してから、サイクルメーターの速度表示がゼロのままなのに気が付いた。マグネットとセンサーの間隔を調整しても復旧しない。メーター本体をセンサー部に近づけると速度を表示してくれる。センサー部の電池が消耗したらしい。電池を手に入れるまで、本体をフロントバッグに入れ、センサーと近づけることにした。
昼にガソリンスタンドに入り、ホットドッグを食べる。自分でソーセージをオーブンに入れて温め、パンにはさんで出来上がり、という段取りだ。前の人を真似してホットドッグにありつくことができた。

今日も「ルート66」と標示されている道を走り、オクラホマシティに近づいてゆく。まだ郊外なのに自動車関連の店が林立している。いかにも車社会の国だ。
町の中心と思しきところに来た。さてモーテルはどこにある?と見回しても、見当たらない。軍の施設らしきところでモーテルはどこにあるかと訊くと、I-40沿いのメリディアン通りにたくさんあると教えてくれた。結構遠いところだ。

延々2時間も走ってそこへ行き、モーテルチェーンのモーテル 6に入った。大都会で宿を探すのはこれだから大変だ。特に当てもなくさまようのが一番消耗する。今日は85キロ走行。

翌日は休息のため、連泊することにした。サイクルメーターの修理、図書館でインターネット、散髪、等々の用事を済ます。長旅は生活のようなものだから、いろいろ雑用も出てくる。
床屋はちょうど開店セール中で11ドル、洗髪付きだった。少々いい加減で頭や服に髪の毛が残っていてもあまり気にしない。ひげはそらない。
オクラホマシティは地図で見ると1マイル間隔で大通りが走っている。まず計画図を描いてから町を造ったことがわかる。それにしても大きな広がりを持った町だ。商業、ビジネス、住宅エリアがきちんとすみ分けられている。住宅はうらやましいほどにゆったりしている。

郊外に森が広がる
4月26日(水) 9℃と寒い朝だった。オクラホマシティの中心でインフォメーションに寄る。商工会議所の中にあり、お歳をめしたご婦人が、電話まで掛けて今日の予定地に宿があるのか、問い合わせてくれた。
 
シカゴに向かうルート66とはここでお別れになる。今は「ルート66」は正式道路番号にはなっていないが、あちこちでその名前を懐かしむ看板を見てきた。我々は更に東を目指す。
市街地を抜けると、森が広がっている。風をさえぎってくれ、走っていて楽しい。道端に大きなフクロウがたたずんでいた。怪我をしているのかもしれない。

74キロ走ったシャウニーでフリーウエイ沿いに巨大ショッピングセンターが出現。食料を調達し、そばにあったモーテルに泊った。 葉子は腰痛の薬を5日飲んでないという。この状態が続いて欲しいものだ。
 
翌、27日(木) 今日もフリーウエイをゆくが、両側に樹木の多い牧場が続き風の影響を受けずに走れる。ガソリンスタンドに寄って休憩。居合わせた若いドライバーに「どこから出発?」と訊かれ、「ロス・アンジェルス」と答えてあきれられる。遥かに遠いところなのだ。

昼にフリーウエイI-40を降り、小さな道を走る。両側に牧場が広がる。そんな中、ところどころで石油のくみ上げポンプがゆっくりと動いている。
 

 
小さな集落に垣根のないゆったり住宅が並んでいる。車の往来も少なく、のんびり出来る。
 
オケマーに来た。住宅地が始まり、小さな商店街になる。途中のガソリンスタンドで聞いたとおり、モーテルがあった。チェーン店のデイズインだ。
夕食はスモークポークをフライパンで野菜と炒めたもの。脂が乗っている肉で思いの外うまかった。

今日で50日目。2750キロを走ってきた。(走行63km)


◆(8)「人とのふれあい」」◆

夏休みかい?
我々の旅も51日を過ぎ、後半に入ってきた。オクラホマシティから東へ100キロの小さな町オケマー。地図上ではアメリカ東西の中央、いわゆる「南部」に来ている。

4月28日(金) 6時半起床。外は16℃、曇り。天気予報は降水確率80%と言っている。モーテルを出るとき、たいていはキーを部屋に残してそのまま出発する。料金は到着したときに払っておくし、部屋を出ればそこは外に通じる駐車場だから、フロントでチェックアウト、などという作業はない。チップはそのときの気分で置いたり置かなかったり。

I-40を走り始めると、反対車線に寝袋を背負った男が歩いている。フリーウエイ上で初めて見る自力移動者だ。常識としてフリーウエイを走っていいものやら不安だったので少し安心した。残念ながら話しを交わすことなくすれ違う。車がバンバン突っ走る車線の向こう側に渡ることは不可能なのだ。

小さな町ヘンリエッタに来た。昔からの店が並んでいる。ガスボンベを手に入れよう。 個人経営の金物店に入り、「キャンプ用の小さなプロパンありますか?」と訊くと、「ウオルマートにあるよ」と教えてくれた。同じ店で買い物をしていた60代の小柄なご婦人が店を出るとき、指でさしながら「すぐそばのプロパン屋にあるはずだから訊いて見なさい」とすすめてくれた。困っている我々を見かねて助けてくれる人たちに感謝。

そのプロパン屋も昔ながらの個人商店。中に入り、再び「ボンベありますか?」と言うと、 「キャンプ用のはここにはないよ。ウオルマートにあるんだ。ここから8ブロック先の右側、マクドナルドの隣だ。ところでどこから走っているんだい?」
→「ロスアンジェルス」
→「何?それはすごい。いつ出発した。」
→「3月11日」
→「長いねー。夏休みかい?で、どこまで?」
→葉子が「ワシントンDC」
→店の奥さんが「Oh my God」

そんな会話でアメリカに居ることの緊張がほぐれてくる。巨大スーパーマーケットでようやくガスボンベを手に入れ、再びI-40を走る。

今夜の宿はレイク・ユーフォラ・モーテル。フリーウエイに広告看板が立っており、インターチェンジを降りたところにあったのですぐに見つけることが出来た。値段を訊くと、59ドル。「もっと安い部屋はないの?」と訊くと、「7マイル先にあるわよ」という。「くたびれているんだから、もう走れないよ」とやり返して宿泊を決める。
部屋に入って一休みした途端、ドッカーンと雷の音。そして雨が降り出した。(走行67km)

4月29日(土) 一晩中降りつづいた風雨が7時半ごろに止み、青空が見えてきた。葉子の腰痛が思わしくない。マッサージしてから出発する。
I-40に乗り、緑の木立に囲まれたユーフォラ湖を渡る。夏にはバカンスでにぎわうのだろう。
チェコターから一般道を走る。畑、牧草地、住宅や農家が途切れることなく続き、フリーウエイを走るよりもずっと生活のにおいがする。人々の姿はあまり見かけない。往来が少ないうえに路肩がたっぷりあるのでのんびり走れる。
ワーナーという小さな村に着いたところで雨が降り出した。ちょうどモーテルが1軒ある。食料を手に入れて投宿する。42ドルで熱い湯が出てバスタブもある。快適。

後輪がスローパンクしていた。調べるとチューブのパッチを貼ったところから空気が漏れている。新しいチューブに交換。(走行40km)

10エーカー売ります
4月30日(日) 次の大きな町はフォートスミスだ。一般国道64号をゆく。
日曜日なので人々が広い芝生の庭を4輪型の芝刈り機で走り回っている。伸びほうだいの芝生を見かけることはほとんどない。小鳥が鳴き、バラが咲き始めている。
アーカンソー川を渡った。広い川幅いっぱいにゆったり流れている。

葉子のサドルを1センチほど下げて腰の負担を軽くする。29キロ地点、道端で休憩し、葉子の腰をマッサージする。通りがかったご婦人が「Are you OK?」と心配してくれる。助け合いの精神がある。葉子はつらそうだ。でも、何とか痛み止めの薬は飲まないでいる。

46キロ地点、緩い丘の頂上に「10エーカー売ります」の看板を見つけた。1万2千坪あまりが約2200万円だ。

 
83キロ走り、フォートスミスの手前、I-40と交差する地点に来た。インターチェンジがあり、ガソリンスタンド、スーパーマーケット、モーテルなどで、にぎわっている。
一泊39ドルのモーテルに投宿。大きくて清潔な部屋だ。夕食は1ポンド(約450グラム)4ドルの牛肉のステーキ。日本の感覚ではかなり安いがそんなに硬いわけでもなく、まあまあ食べられる。ちなみに2倍の8ドルの肉はTボーンステーキ肉だった。

4月の出費を締めてみると2105ドル(約25万円)だった。モーテルが27泊、テントが3泊、三食とも自炊の毎日、を過ごしてきた。

薬を3種類
5月1日(月) 8時半に出発。一度渡ったアーカンソー川を再び渡り、フォートスミスの町へ入った。アーカンソー州だ。立派な教会が建っている。

 
走り続けてそろそろ郊外かというところにウオルマートを見つけた。
葉子が腰痛の薬を探す。薬局で飲んでいる薬を見せ「同じものが欲しい」というと、薬剤師のおじさんがその薬を見定め、「これは医師の処方がないと出せない」という。アドバイスに従い、市販の痛み止めを買うことにした。
薬局に血圧計が備え付けられていた。表示単位が「ミリメートル」だ。アメリカは普通、長さの単位としてインチやマイルが使われるが、医療の世界は別らしい。
他に、日焼け止めクリーム、かゆみ止め、香水も購入した。今日は薬まとめ買いの日だ。

ずっと64号を走る。このあたりはフリーウエイを走らずとも、進むことが出来る。道の両側には人家や店が続いている。

 
厚の後輪がパンクした。これでパンクは合計15回。そのうち葉子のタイヤはたったの1回だけ。彼女が使っているスペシャライズドの「ニンバス」がパンクに強いのだろう。それにしても違いすぎる。

午後5時、71キロ走ってオザークのモーテルに投宿。このあたりの英語は発音が明瞭でないのかよく聞き取れない。話していて訊き返すことが多くなった。

州立キャンプ場
5月2日(火) 7時起床。曇りで気温19℃。かなり暖かくなってきた。チェーンに注油して出発する。
今日はずっと一般道のR64を走った。フリーウエイのインターチェンジを見ると「歩行者、自転車禁止」の標識が立っている。そばを一般道が通っているのだから当然だ。のどかで往来の少ない道を行く。地図にキャンプ場のマークを見つけた。そこへ行こう。小さな村の雑貨店でパスタとベーコンを買う。
しかし、地図が示す場所に来てもキャンプ場は見当たらない。代わりに原子力発電所があった。結局、それから10キロあまり走り、ダルダネル湖州立公園キャンプ場にたどりついた。

公園の中のキャンプ場は展望の良し悪しにより、区画の値段が異なっている。気に入った17ドルの区画を使わせてもらうことにし、キャンピングホストに教えてもらいながら手続きを完了。
「キャンピングホスト」はキャンプ場をボランティアで世話している人たちのこと。公園事務所の業務が終ってからやってくる旅人たちがキャンプできるように支払いや場所の面倒を見てくれる。周りにはキャンピングカーで泊まりにきている人が多い。20組くらいか。

暖かいシャワーを浴びることができ、水道の蛇口もテント場の横にあって快適。途中で買ったパスタとベーコンで夕食の調理に取りかかる。この郡はドライカウンティといって、アルコールの販売が禁止されているらしい。したがってビールは我慢。(走行81km)
 
ガチョウやリスと遊ぶ
5月3日(水) 起きたときのテント内の気温は23℃。このくらいの温度だと寒くないというより暑いくらい。出発した頃や標高の高いサンタフェ周辺の凍えるようなキャンプとは様変わりだ。

公園内を散歩すると、ガチョウが恐がることなく人のそばを歩いている。リスも人を警戒しない。
 

 
56キロ走り、モリルトンでKOAチェーンのキャンプ場に泊まった。一泊17.7ドル。モーテルが30ドル台、安ければ20数ドルで泊まれるのに較べて高すぎる感じだが、ガイドブックや地図であらかじめ場所が把握できるため、宿泊計画が立てやすいというメリットがある。

サーモンムニエルを盗まれる
5月4日(木) 起き出してテント脇のテーブルの上の食料を入れたビニール袋を見ると直径4センチほどの穴が開いている。かじられた跡だ。ちょうどその穴の内側に入れておいたサケのムニエルがなくなっている。犯人はリスだろうか。袋は3重にして縛っておいたのに。夕食に食べる予定がふいになってしまった。葉子が悔しがるものの後の祭り。
 
8時過ぎに出発した途端、雨が降り始めた。一般道を走るうち、11時ごろ雨脚が強くなり、ザーザーぶりになってきた。雨具のフードを付ける。靴はびしょびしょ。そんなときに限って野原が続き、人家もなく、雨を避けるところが見つからない。やっと無人の家を見つけ、ひさしの下に飛び込んだ。
ベランダの床板は外れ、戸も外れており、廃屋の雰囲気だ。ところが、家の中に電球が一つ点いている。それに、庭の芝生も最近刈られたばかり。なんとも不気味だ。小降りになってそこを後にした。

コンウエイに来てガソリンスタンドに寄った。暖かいコーヒーや食べ物で体を温める。
60代の腹の出た、人のよさそうな白人の店主にリトルロックまでの一般道を教えてもらった。手持ちの地図には描かれてないのだ。彼の話によると、一週間前に合衆国を横断中の夫婦がここで休憩したという。ロサンゼルスを1月に出発し、ワシントンに秋に着く予定とか。我々に輪をかけてのロングトリップ。きっと彼らは野宿の旅をしているに違いない。徒歩で一日に進める距離はせいぜい30キロだろうが、町の間隔はもっと長い。ちょうどよいタイミングで宿を見つけるのは自転車以上に難しいはずだ。降り続く雨の中、あちらこちらでちょっとした洪水になったコンウエイを脱出した。

午後4時、リトルロックの町に入った。スーパーマーケットで食料を調達。うまそうな牛肉が2個入っているパックを見つけ、肉コーナーの店員に頼んで1切れパックにしてもらった。面倒なことだが頼めば快くやってくれる。

遠く、アーカンソー川対岸に林立する高層ビルを眺めながら、ノースリトルロック地区を行く。コンウエイで教えてもらったとおり、何軒かのモーテルが立っている。ぼろいが35ドルと安い「スポーツマンズモーテル」に投宿。名前とは裏腹にいつもと違わぬモーテルだったが、雨にたたられた日にベッドで寝られるのはありがたい。(走行90km)

ここまで累計で3250キロを走ってきた。経度にすると出発のロサンゼルスとリトルロックはちょうど26度になる。自力で移動してきてもつかみどころのない広大さだ。ロサンゼルスを出て、すぐにモハベ砂漠を横断し、そのあとロッキー山脈越えが始まった。最高点は2000メートル。しかし、山脈の幅がとても広いので、道の勾配は緩く、いつの間にか高いところにきて、いつの間にか下っていた。乾燥地帯が続き、森林や緑は少なく、牧場には野生の鹿が飛び跳ねていた。フリーウエイだけが大動脈として夜昼なく大型トレーラーを走らせる別世界だった。

ロッキーを下ると次第に緑が増え、牧場だけでなく、畑も目に付くようになり、人口密度が上がってくる。土地の生産性が高くなってきたのだ。町と町の間隔が短くなり、郊外にも住宅が現れるようになる。住宅はとても広く、例外なく、芝生で覆われていた。 日程はあとひと月あまりを残している。アメリカはこの先どんな姿を見せてくれるだろうか。



◆(9)「大河をわたる」◆

地球を26度
アーカンソー州のノースリトルロックにやってきた。累計3248キロを走行。この旅はほぼ北緯34度の線上を東に向かって進んでいる。ロサンゼルスの経度は西経118度、ここノースリトルロックは西経92度で、地球を26度回ったことになる。勿論赤道上の26度より、距離は短いわけだが。亀の歩みも日数をかけるとたいそう進むものだ。いつのまにか「南部」といわれるところにいる。町に黒人を見かけることが多くなってきた。

5月5日(金) 朝の気温は18℃。前日大雨に降られたのでチェーンに油を差して出発する。
一般道の70号線を東へ進むと、森の脇の池にガチョウ2羽が遊んでいる。
 
それからは右に延々と沼地が続いた。根が板根になっている背の高い針葉樹が沼に林立している。奇妙な光景だった。
 
沼地帯を過ぎると大豆が植えられている広大な畑になった。平坦でまっすぐの道。車の往来は少ない。
昼にロノークに来て、ガスステーションでランチをとる。隣の席でお茶を飲んでいた、土地の年配の男たちが我々を見つけ、日本のガソリンの値段や、いつもの質問をしてきた。
時間は早いがそのままインターチェンジそばのモーテルに泊まることにした。荷物を降ろして外出。食料を調達してから葉子は髪を切りに行く。厚は図書館でインターネット。asahi.comを開いて日本のニュースを見る。1ドルが121円と円高に振れている。海外旅行には有利だ。

この町ではビールや酒を売っていなかった。店員に「ここはドライカウンティかい?」と訊くと「そうだ」の返事。「ドライ」を辞書で引くと<禁酒法の>とある。郡によってアルコールの販売が禁じられているところがあるのだ。
夕食は0.8ポンド(360グラム)のひき肉を使い、葉子がハンバーグをこしらえた。半年前、スペインの片田舎で買った小さなフライパンが活躍してくれる。

アメリカを旅して何を見、何が分かったか。
アメリカ大地の距離感は実感できた。大地の様子も見た。ガスステーション、図書館、スーパーマーケット、キャンプ場などで出会う人々は実に気さくだ。街中では車が人や自転車に気を配って運転してくれる。

一方、わからないこともたくさんある。経済の中身、人々が何をしてどれだけの収入を得ているのか。土地の配分は、一部の人々が広い土地を持っているのか、等々、旅をしているだけでは分からないことも多い。(走行38km)

火災報知機が「ピーピー」
5月7日(日) 静かな地方の町ブリンクリーを出発。日曜日のせいか交通量が少ない。それに、道の両側に背の高い木が植えられていて、風の影響を受けずに済むのがありがたい。
 
ここに限らないが、道端に車に轢かれた小動物が沢山転がっている。ウサギ、アルマジロ、ネズミ、カエル、カメ、リス、鳥、等々。日本に比べ動物の生きるだけの余裕があるということだ。

フォレストシティに着いた。スーパーを見つけ食料を調達。ワインもかごに入れたが、レジで「日曜は売れない」といわれ取り上げられてしまった。泊まったモーテルで訊いたら、「アーカンソー州では日曜はアルコール飲料が買えない」という。そういえば今日はアーカンソーで最初の日曜だ。

日曜のせいで教会に着飾った人々が集っている。ヨーロッパに比べ、教会の数が多く、小さな町でもいくつかの教会が立っている。宗派ごとに分かれているからだろう。教会に通う人も多いようだ。だから政治とも強く結びついているのだ。

モーテルの部屋で夕食の準備に取り掛かる。ドアの内側でニンニクを炒め始めたら、天井の火災報知機がピーピー鳴り始めた。煙を感知したらしい。びっくりして、フライパンを外に出した。 「ピーピー」音は10秒ほどで鳴り止んでくれた。それからはびくびくしながらドアの外で調理にいそしむ。幸い、誰が駆けつけてくることもなく料理完了。(走行43km)

5月8日(月) フォレストシティはその名前だけあって樹木多し。それも大木が多い。フリーウエイI-40脇の一般道を行く。
ウエストメンフィスに来てモーテルに宿泊。ドアのところで夕食をこしらえていると、バスケット遊びをしている子供たちがのぞきに来た。一人はモーテルオーナーの息子、インドから来たという。「何を食べているの?」と訊いたので葉子が「スープ」と答えると通じない。スペルを言ったら「ああ」といって彼の言い方で発音した。我々が習う発音とは違う。南部なまりなのだ。

今日の料理で8本目のガスボンベが空になった。1本の内容量が465グラム。ほとんど毎日3度の食事を自炊し、7日に1本の割合で消費してきた。(走行74km)

恐怖のミシシッピ川
5月9日(火) 泊まった宿から数キロ先を流れるミシシッピ川を渡るとメンフィスだ。ミシシッピ川にかかる橋は何本かあるが、皆フリーウエイになっている。自転車でわたる場合はどの橋でもいいというわけにはいかない。自転車が通行可能か、可能であっても、路側帯がなければ、でかいトレーラーのすぐ脇を走らなければならない。

確かな情報がないまま、宿を出る。一般道のR-70を進むと、広い道と合流し、フリーウエイR-55になった。大型トレーラーがバンバン走る。ミシシッピ川の橋のたもとに来ると路側帯がなくなってしまった。恐れていたことだ。
ところがひょいと横を見ると、歩行者用の道が高さ1メートルのコンクリートバリヤーの外側に造られている。しめた。20メートルほど戻り、バリヤーの切れ目から歩行者道にはいる。狭いが車との接触の心配はない。

ミシシッピ川はとうとうと流れていた。川幅は500メートルくらいだろうか。茶色くにごっている。橋の上で止まると、車の通行のせいで橋が揺れているのが分かる。
 
そして無事に渡りきった。
 
メンフィスの端っこにくると、メンフィスが大きな町らしいことを感じさせる。とりあえずフリーウエイから脱出し、ミシシッピ川のほとりにあるウエルカムセンターを訪れた。等身大より大きいギターを弾くエルビスプレスリーの像があった。ここはプレスリーゆかりの町。シティマップをもらい、どこを見ようかと思案。

歴史的地域へ行ってみる。プレスリーの時代をおもわせるカフェがずらりと並び、戸口からは大音量のロックが聞こえてくる。
 
「グレイスランド」がプレスリーの記念館なのだが、少々遠いのでやめ。代わりにピンクパレスミュージアムへ向かった。
それは壮大な建物と広大な庭。アメリカの昔の生活、食料品店、薬屋、医者、雑貨店、自然の生き物、恐竜、鉱物、化石、等々のなんでも博物館だった。小学校の生徒たちが見学に訪れていた。

メンフィスは樹木の多い町だ。住宅の庭に驚くような大木が立っている。それだけの土地の余裕と年月を経た町なのだろう。
I-40のジャンクション周辺でモーテルを探す。「ゲストイン」という部屋数が100以上の大きなモーテルに投宿。
一回りしてみると、ここに住み着いている人たちがいる。犬だって住んでいる。二階の廊下からいろいろしつこく話しかけてくる男がいるかと思うと、それを傍で見ていて、「相手にすることはないよ」と助けてくれる人もいる。いわばひとつのモーテルコミュニティだ。
風呂から出ると、天井の火災報知機が「ピー」と、いやな音をだして鳴りはじめた。オフィスに走り、止めてくれるように頼む。若い白人の男がやってきて火報の6P電池を交換し、自信ありげに「これで大丈夫」と言い、出て行った。
ところが、寝てからも間歇的に「ピー」と鳴る。午前3時になり、堪らず電池をはずしたところ、鳴り止まぬどころか連続して「ピービービー」。あわてて電池を戻し、部屋においたガスコンロのボンベをはずし、隠してからオフィスへ走る。
夜間の窓口で防犯用のアクリル板越しに宿直のオバサンに状況を説明した。その結果、別の部屋を使わせてくれることになった。鍵を借りて部屋に戻ると「ピー」音はしなくなっていた。ボンベのガスに反応していたのか。そのまま朝まで鳴ることはなかった。

翌朝、バスタブに湯をためて風呂に入ると、途端に「ピー」音が鳴りはじめた。バスルームのドアを閉めると鳴り止む。どうやら、湯の蒸気にも反応するらしい。どうにも神経質な部屋の、眠れぬ一夜が明けた。(走行32km)

雨の中でモーテルを探す
5月10日(水) 騒がしい夜が明けると雨が降り出した。雷も鳴る。テレビの天気予報を見ると雷雲が西から移動してきている。やっと小降りになった10時半に雨具を着て出発する。「今日もまた走らなくちゃワシントンDCに着かないわ」と葉子がつぶやく。

ずっと市街地が続く。片側2車線の区間は路側帯が狭いので、車との間隔が確保できず走りにくい。一度やんだ雨がまた降り出し、大降りになってきた。昼に着いたアーリントンのガスステーションで宿がないか、と訊くと30キロ先のスタントンにあるという。仕方がない、雨の中を飛び出す。
午後4時にスタントン到着。しかし宿はなかった。更に18キロ先だという。結局78キロ走り、午後6時に到着したブラウンズビルでモーテルにたどりついた。

5月11日(木) 晴れ。昨日、雨に濡らしたチェーンに油を差して出発。走り出そうとして後輪のパンクに気がついた。70号迂回路線を行く。
70号迂回路線(alternate)は元の70号のバイパスとして造られた道だろう。路側帯が狭くて走りにくい。普通、追い越してゆく車は我々と充分間隔をとって通り過ぎてゆく。
ちょうど前方からも車がやってきた場合、多くの車は前からの車が通り過ぎてから、ゆっくりと我々を抜いてゆく。しかし、たまに、前からの車をやり過ごすことなく追い越してゆく車がある。当然、追い越す車は我々の横ぎりぎりをすり抜けてゆくことになる。そんなときはハンドルをしっかり握り締め、危機が去るのをじっと祈るしかない。

昼に通ったフンボルトはなにやらお祭りの準備中。「ストロベリーフェスティバル」だという。目抜き通りはイチゴののぼりや国旗がはためき、フランクフルトやアイスクリームの屋台が並ぶ。
通りの両側の芝生には見物用に椅子が並んでいる。学校生徒のブラスバンド行進が行われるという。見たいのは山々だが、待っていると夕方になってしまう。先を急ごう。
 
55キロ地点、墓地の入り口で休憩する。墓地は広々と芝生で覆われていて、墓標やモニュメントは見当たらない。ぽつぽつと地面に埋められた四角い石に名前と生まれ、死んだ日が刻まれている。見た目に実にすっきりと美しい。ルールを決めてこのような景観を保っているのだ。
墓地を運営している81歳の爺さんが話しかけてきた。葉子と長話する。彼はこの地域の昔の様子を話してくれた。戦後、道路や住宅が急速に変ったという。この長話の後、葉子が言った。「今回の旅行中、話しかけてくるのは年配の人ばかりだね」。われわれもそんな年齢の仲間入りをしているからだ。まだ81にはなっていないが。
62キロ走ったミランで投宿。

芝刈りに精出す人々
5月12日(金) 今朝は晴れているが12℃と涼しい日だ。今日も70号迂回路線をゆく。この付近は町から離れても住宅が点在している。5月も半ば、バラ、タイサンボクを見かける。

広い庭で芝刈りに精を出している人々が多い。芝が伸び放題の庭は皆無といってよい。芝をきれいに手入れしておくのが大事な義務のようだ。芝刈り機はほとんどがその上に乗って運転する4輪型だ。日本ならゴルフ場でしか見られないのだが。

かえって、広大な畑で作業している人を見かけない。農作業は毎日行うものではないのか、それとも、作業が見えないほど畑が広いのか。カムデンに来てモーテルチェーンのバジェットインに投宿。(走行70km)

テネシー川を渡る
5月13日(土) 13キロ走り、テネシー川にやってきた。橋には広い路側帯があって安心して走れる。地方道なのだろう、往来も少ない。広い川でボート遊びやつりをする人たち。駐車場にはボート牽引用の台車をつないだ車がずらりと並んでいた。
 
今日も強い追い風だが、道はアップダウンがあるのでつらかった。森の中の山道を行く。
モンゴメリーベル州立公園のキャンプ場に泊まることにした。12ドルなり。民間のKOAに比べると公立のキャンプ場は安く、広い木立の中にテントを張ることができる。RVが沢山泊まっているがテント泊もいる。週末のせいで家族連れが多い。キャンプエリアにはバーベキューの窯がしつらえてあり、枯れ枝を集めて火をつける。燃える火を見つめていると飽きない。
 
メンフィスでミシシッピ川を渡ってからは、フリーウエイを走ることなく、一般道だけで先に進むことができるようになった。それだけ、人の活動が盛んな地域に入ったということだ。累計走行が3780キロになった。(走行85km)




◆(10)「旅の終わり」◆

モーテルはどこだ
5月14日(日) 旅を始めて67日目。毎日、自転車に乗り、寝るところを探し、食事を作る、ことが生活になっている。残すは20日足らずとなった。
モンゴメリーベル州立公園のキャンプ場は針葉樹の木立の中に広がっている。夜間は冷え込んだので、ありったけの衣類を着込んで寒さをしのいだ。
朝6時に起き、枯れ木を拾い集めてバーベキュー用のかまどに火をつける。となりのキャンパーが、もう出発するからと太い薪を置いていった。おかげでうまいベーコンエッグが出来上がった。
70号線をゆく。広い路側帯が確保され、「バイクルート」の標識がたっている。樹木が多く、森の中にいるようだ。

 
道端に鹿の死体が倒れていた。夜中に車にはねられたのだろう。大型の動物が生きられるほど森が深いということだ。大きな鳥が5羽群がって肉をついばんでいた。
ナッシュビルの手前でウオルマートに寄る。後輪用に太さ1.75のタイヤを購入。3月29日に交換し、2700キロ走ったタイヤがずいぶん磨り減ってきたのだ。
キャンプで使うスポンジのマットも購入。使用中の半身用のエアマットが短くて、足が休まらない上に空気漏れを起こし始めた。
昼過ぎにナッシュビルの中心に来た。テネシー州の州都だけあって、高層ビルが10棟以上。いかめしくそびえる議事堂や我々に無縁の大型ホテルもある。日曜のせいか人通りはない。
南へ走り河畔のダウンタウンへ来ると、賑わいがでてきた。

 

モーテルがあればと思いながら70号を走るも、見つからぬまま、中心地から離れてしまった。通行人に2マイル先にあると聞いたが見当たらない。女性の警官に聞き、進行方向にあると教えてもらったが、その場所にもないままナッシュビルの中心から19キロも来てしまった。
走行中に突然、斜め後ろからソフトクリームのかけらが飛んできて顔を掠めた。我々を追い越した車からわざと投げつけたのだ。車の通行を妨げていたわけではないのに。アメリカに限ったことではない。日本でもこのような嫌がらせは何度も経験している。車に対して非力の自転車乗りは用心して走ることだ。
大きな交差点に立っているガソリンスタンドに飛び込んだ。腹ごしらえをしながら、主人にモーテルの場所を尋ねると、「戻って、左折し、飛行場そばにあるよ」と、ていねいに地図を描いて教えてくれた。時刻は午後5時。疲れているが、確実な情報をもらい、元気が出てきた。9キロ走り、40号との交差付近にモーテル群が現れた。レッド・ルーフ・インに投宿する。いつものことだが、大きな町ほど宿探しに苦労する。(走行83km)

翌15日、葉子に疲れが残っているので連泊する。レッド・ルーフ・インはアッコー・ホテルズ・グループのモーテルで、一泊63ドルとやや高いが、泊まり心地は申し分ない。 後輪を前日に買ったタイヤに付け替えた。午後から私だけ外出。図書館でインターネットを使い、ニュースやメールを見る。会社で一緒に仕事をした人が病気で亡くなった、という連絡がはいっていた。

5月16日(火) かさばるスポンジマットをゴムひもで後ろのキャリアにくくりつけて出発する。荷物の積み具合が長距離サイクリストのスタイルになってきた。
今日も70号をゆく。路側帯が広く取ってあるので走りやすい。ずっと住宅や店が続く。ナッシュビルの経済範囲が広いということだ。レバノンという町でクローガーというスーパーマーケットに寄った。このあたりでよく見かける店だ。無料サービスのコーヒーをもらってランチにする。  
インターチェンジそばのナイツ・インというモーテルに投宿。ロサンゼルスで泊まったのと同じモーテルチェーンだ。

隣のトラックドライバー用の宿泊施設、トラベルセンターにビールを買いに行く。建物に入ると一階は普通のガスステーションと同じコンビニエンスストアだ。二階への案内板に「プロの運転手用。シャワー、テレビ室、、、」とある。トレーラーの運転手がゆっくり休憩できるようになっている。(走行45km)

緑豊かな丘を走る
5月17日(水) 70号を行く。丘が続き、上り下りに悩まされる。時々、リスが道を横切り、ウサギが走る。しかし、人家が途切れることはない。
午後、高校の前を通ると、次々に生徒が車を運転して学校から出てきた。高校で免許が取れるらしい。自転車で通学する生徒は見当たらない。クックビルに来て警察で教えてもらい、モーテルにたどり着く。I-40との交差点にあり。
出発以来の累計走行が4000キロになった。葉子の体調が悪いのに、よくここまでやって来れた。(走行94km)

ボンベのガスが噴出

 
クックビルから道は登りになった。山の中、往来も少なく、人家はポツリポツリ。21キロ点で標高は520メートル。高原に出たらしく、平坦になり、その後は楽になった。キャンプのためにクロスビルの先のクンバーランド州立公園に入る。午後5時半で既に事務所は閉まっていた。キャンプエリアで「ホスト」の札をかけたキャンピングカーの主に聞くと、「レンジャーがまわってくるからその時に払えばいい」という。居心地のよさそうな草地にテントを張っていると、「gravel(砂地)の上に張りなさい」と指導してくれた。説明板に書いてあったのだが「gravel」の意味を知らなかった。
夕食はテントのすぐ横の大きなテーブルを使い、サーモンステーキをつくる。
 
食後、コンロの火口とボンベを分離した途端、ボンベから白い煙が勢いよく噴き出した。あわてて、ボンベを地面に放り投げた。コンロ側についているべき金具がボンベ側について外れてしまったために、ガスが止まらずに噴出したのだ。こうなると噴出は止められない。「シューシュー」とガスを吹き続けるボンベをただ眺め、静かになるのを待った。
翌朝、落ち着いて調べると取れてはいけないねじが緩んで外れてしまっており、元に戻せることが分かった。ボンベは空っぽになってしまったが。

5月19日(金) 寝坊して7時起床。外の気温は9℃。明け方は冷えて上下の雨具を着こむほどだった。標高が高いからだ。
前夜は結局レンジャーが回ってこなかった。テントを撤収し、事務所に寄って料金を払う。15.5ドルなり。
今日も上り下りの山道を行く。葉子はつらそうだ。ウオルマートで買った痛み止めを飲んでいる。ときどき休んでは腰をマッサージする。
ロックウッドという街に来た。地図に大きな字で地名が書かれている割に中心部は閑散としている。にぎやかなのは中心部から少し離れたバイパスとの交差点の周辺だった。スーパーマーケットなど大型店が並んでいる。車のアクセスが容易で広い場所が確保できるところに新しい商圏が出来ているのだ。ウオルマートでボンベを買い、さっそく取り付けてみると、ガスが漏れることなく、コンロが使えた。ほっとする。
ウオルマートの店員さんに聞いてモーテルのある所にやってきた。フリーウエイのインタチェンジそばに3軒並んでいる。一つ目を訊ねると満員だという。高校の卒業旅行で貸切らしい。2軒目も満員。これは困った。不安な気持ちで最後のベスト・ウエスターンにあたると、宿泊OK。よかった。受付の年配のおじさんがこれから越える予定のアパラチア山脈やその向こうの見所についてていねいに解説してくれた。(走行61km)

イースタンタイム
5月20日(土) テレビをつけると時刻が1時間早まっている。今までのセントラルタイムからイースタンタイムに変っていたのだ。ロサンゼルスから見ると3時間の時差になる。
70号を行く。キングストンに大きな湖がある。湖畔に遊歩道が伸び、ボート遊びを楽しむ人たちでにぎわっている。今日は土曜日だ。
 
キングストンを出ると山道になった。オートバイで走る人びとをよく見るが自転車に乗る人はいない。
葉子は疲れ気味。こまめに休みを取る。ノックスビル手前のファラグートに「モーテル6」を見つけて投宿。45.7ドル。葉子は部屋に入るなりベッドに倒れこむ。疲労が極限に達している。(走行52km)

旅の終わり
5月22日(月) 朝、ベートーベンの「運命」の出だしのメロディ「ダダダダーン」を奏でる鳥の声で起こされた。ベートーベンもあの鳴き声を聞いただろうか。
ファラグートで2泊したが葉子の疲労と痛みは一向に回復しない。ここで走るのを止めるとしよう。もう充分に走った。どこで切り上げてもいいのだ。
翌日、帰国の手はずを整える。まず帰国便の日程を早めるべく、アメリカン航空に電話した。日本語を話すスタッフが出てくれたので、はなしが早い。帰国のフライト日を6月6日から5月29に変更することができた。葉子は旅の最後に寄ると約束していた、ノースカロライナの友人に行けなくなったことを電話した。
午後、厚はワシントン行きのバスがでるノックスビルへチケットを買いに走る。
ノックスビルはレンガ造りの建物が多い落ち着いた町だ。バスステーションは歴史的地域のダウンタウンの中にあった。古くからのコーヒー会社があり、あたりにはコーヒーのにおいが立ち込めている。 ワシントンまでのバス賃は二人で156ドル。自転車は箱に入れて持ち込むことが出来る。
 
宿に帰ってから不要なものを処分した。スペアのタイヤ、スポンジマット、地図等々。走らないときは、自転車そのものが大荷物だから、ほかの荷物を大幅に減らさないと、持ちきれなくなる。

ワシントンへ
5月24日(水) 朝7時40分にファラグートの宿を後にした。昨日、切符を買いに走った往来の激しい街道を走る。緩いのぼり坂もあるが、葉子も何とか走っている。25キロ走ってノックスビルのバス駅に到着した。
北米大陸の大陸横断はこれにて終了。ロサンゼルスからの累計距離は4222キロ。よく走った。アメリカ合衆国を充分堪能した。ゆっくりと自転車を分解する。
 
バスは全米をネットワークしている「グレイハウンド」。名前を聞いたことはあるが、乗るのはこれが初めてだ。どんなバスでどのようにワシントンまでゆくのか、興味津々。ここノックスビルからはアトランタ、シャルロッテ、シンシナティ、ナッシュビル、ワシントン行きの路線がある。広い待合室のベンチに腰掛けて出発を待つ。
バスは予定より1時間近く遅れ、午後2時40分に出発。車体はくたびれており、車内は結構薄汚れている。葉子は席のリクライニングが動かないので別の席に移動した。乗車に予約は必要だが、席は決められていない。
 
出発してすぐ、フリーウエイに乗ったが、1時間もしないうちにフリーウエイから降りてモリストンという町に寄り、一人の客を拾った。そのあともあちこちの停留所に寄り、乗客を乗せたり降ろしたり。ワシントンまで高速道路を突っ走るものとばかり考えていたのは大ちがい。どおりで直線距離800キロ足らずに15時間もかかるわけだ。急ぐ人は飛行機を利用し、倹約したい人はグレイハウンドに乗る。
席はほぼ満員。黒人の若者、スペイン語で話をする人々。われわれのような年配者はまれだ。
フリーウエイを走行中、GPSを窓に押し付けると、衛星を捕捉できた。時速112キロで走っている。制限速度が時速65マイル(時速104キロ)なのでそれほどの速度超過ではない。だいたい大幅に飛ばす車はいない。したがって車相互にあまり速度差がない。取締りが厳しいのか、飛ばそうとする人がいないのか。
午後8時、ウィスビルで、マクドナルドの駐車場に停まった。30分休憩するから食事するように、とアナウンスが流れる。一番ポピュラーなレストランがマクドナルドなのだと改めて認識。ハンバーガー2個、ジュース、コーヒーが夕食となった。
途中、切符の検札やバスの乗換えなどがあり、翌朝の4時にやっとワシントンのバスターミナルに到着した。

5月25日(木) バスターミナルで自転車を組み立て、朝食をとり、明るくなってから動き出す。パンフレットで場所が分かっている「モーテル6」へ向かう。大都会だ。信号が多いし、交通量も多いから車はのろのろ走っている。ちょうど登校時刻で生徒たちが学校へ向かう。黒人が今まで通ってきた町に比べてはるかに多い。
ワシントンの中心から10キロあまりのところ、すでに住宅が立ち並ぶ一角に目指すモーテルを見つけた。幸い、部屋は空いていた。一泊92ドルと高いが大都会だから仕方ないだろう。モーテルといっても泊まる部屋は3階。今までのように車がドアに横付けというスタイルではない。エレベータに自転車も 押し込んで部屋にたどりついた。
昼から葉子と自転車でワシントン見物に出かけた。道の両側に立ち並ぶ家々はレンガ造りが多く、イギリスの町並みに似ている。
ホワイトハウスにやってくると、高い柵の向こうにテレビで見たことのある左右対称の白亜の建物が立っていた。
ホワイトハウスからポトマック河畔にかけては広大な公園になっていて、観光客のほか、ジョギングやサイクリングを楽しむ人が多い。
 
地図店を見つけ、ワシントンのサイクリングマップを手に入れた。自転車道が都会の中に張り巡らされている。
 
帰りにスーパーマーケットに寄り、食材を手に入れる。魚介類の品揃えが豊富でうれしくなる。大きなえびと帆立貝を買った。

夕食はいつもどおりの自炊だが、3階の狭い部屋でコンロは使えない。食材と道具を持って1階に下り、駐車場の片隅を台所にした。

ここでのんびり4日をすごすと、いよいよ日本に帰る。



◆(11)「旅をふり返って」◆

おまけの椿事
5月29日(月) アメリカを離れる日がきた。ロサンゼルスに着いてから82日、今迄のサイクリングで一番長い旅になった。前夜にぼろぼろになった衣類、地図、ガスコンロ、ボンベ、ビニールシートなど、不要になった愛用品を全部捨てる。
宿からダレス空港へシャトルバスで移動。前日に予約すると、朝4時に来ることになった。やってきた小型バスは座席が7人分。最初に我々を乗せたあと、住宅、アパート、ホテルに寄り客を拾ってゆく。フリーウエイに乗ったらあっという間に空港へ到着した。
チェックインでスケジュ−ル変更が処理されていることを確認して一安心。変更に伴う費用、一人135.9ドルをクレジットカードで支払う。ゲートへ移動し、持ってきたサンドイッチで朝食。

8時10分に搭乗。両側3列ずつの小さな飛行機。これでまずロサンゼルスまで飛ぶ。8時36分に離陸。
8時50分。森、住宅、畑、蛇行する川、低い山並み、がはっきり見える。葉子と、「下の風景がよく見えるね」と楽しんでいたが、少しおかしい。目測で3000メートルくらい、いつまでたっても高度が上がらない。9時ちょうど、機体が急に旋回し、再び東へ戻り始めた。

そのとき、機長が「はーい、みなさん」と軽い調子で機内放送をしてきた。よく聞き取れないが、乗客も何事も無いように落ち着いている。
葉子が「放送でワシントンに戻るといっている」。隣に座っているアメリカ婦人に聞きなおすと「客室の圧力漏れで戻る」ということだ。
10時33分、ダレス空港に着陸。ちょうど2時間の遊覧飛行だった。そしてゲートに戻ってきてしまった。

さてどうしたらいいのだ。そのうち、ゲートのカウンタで係員が処理を始めた。放送やモニターの案内は無く、声を張り上げての手作業だ。ロサンゼルスが最終地の客は待っていればよいが、乗り継ぎ客は処理が必要らしい。
少し離れた別のカウンタで東京行きの客の処理が始まった。女性の係員があわてながら別便への切り替え処理をする。そして「ゲ−トB41番へ行け」という。搭乗券をくれたわけではなく、どの便に乗るのかもよくわからないまま、必死で空港内のシャトルバスにも乗り、B41へ急いだ。

12時10分にゲートB41に着いた。そこはANAのゲートカウンタ。日本語が通じる。搭乗券の切り替え処理がされていて飛行機に乗れることが分かった。ANAのNH0001便、12時25分発、成田着は翌日の15時48分。預けた荷物が一緒に着くかどうかは分からないという。搭乗券を手にしたときには既に搭乗が始まっていた。
飛行機に乗り込むと指定の席に先客がいる、という小さなおまけがついたが、それはすぐに解決。これで本当に日本に帰れる。


旅をふり返って
アメリカは大きかった。我々はほぼ北緯35度に沿って西から東へ走ったのだが、前半のロッキー山脈越えは実にゆっくりと登っていった。どこがピークなのかわからない、とても平らな分水嶺を越えると今度は緩やかに下った。


図「走行ルートの標高プロファイル」は毎日の宿泊地点のGPSによる経度、高度情報をプロットしたもの。乱暴に言えば、アメリカ大陸の北緯35度断面を現したものだ。ロッキー山脈がいかに大きいのかが読み取れる。  
はじめのカルフォルニア、アリゾナ州は沿岸部をのぞけば人のにおいの希薄なところ。広大な牧場は境界の鉄条網がその存在を示しているものの、よそ者の目にはただの荒野としか映らない。その中を走るフリーウエイだけが、アメリカの動脈としてロングトレーラーがひっきりなしに行き交う別世界だった。
我々もフリーウエイを走った。フリーウエイのほかに道のないところでは、自転車の走行が禁止されていない。はじめこそ恐る恐る走ったのだが、路側帯が2メートル以上と広く取ってあるので、慣れてくると案外快適に走れる。
中央部まで来ると、牧場でも人の手が入り、広い畑も現れるようになる。人口密度も高くなる。

アーカンソー、テネシー州まで来ると緑がずっと濃くなり、フリーウエイを走らず、一般国道をルートとして選べるようになって来た。フリーウエイを走らないですむようになったのは確かフォートスミスからだ。
 
危ない目には一度も会わなかった。車は実に紳士的に走る。クラクションを鳴らされたことは数えるほどしかない。フリーウエイは路側帯が広いし、街の中の車はゆっくり走る。
暴力を振るわれたり、泥棒にあうこともなかった。人々はみなフレンドリーだ。スーパーでもガスステーションでもニコニコと話しかけてくる。だからといって油断してはいけないが。

サイクリストには予想に反し、ほとんど会わなかった。チューブやパッチが必要になり、自転車店を探せば、町にはしっかりしたスポーツバイクショップがあるのだから、我々の知らない道を走っているのかもしれない。帰途に寄ったワシントンでは大勢のサイクリストが走り回っていた。これにもまた驚かされた。

アマリロで葉子に腰痛が起きてから、彼女にとってつらい旅になった。休み休み、だましだまし、走ったがなかなかよくならない。それでもアマリロから更に2000キロ。よく走った。
休養が必要な葉子のペースに合わせるのは苦労だった。旅行中は普段生活するときにも増して四六時中一緒にいるわけで、我慢がたまると、けんかになることも度々だ。寛容さを養うのも旅の一つの効用。
一方、二人連れの旅は一人旅より安心がある。買い物や炊事作業、宿の交渉、留守番など、相談と分担ができるし、広い目で世界をみることができる。
予定を600キロ残し、ノックスビルで横断を終了したが心残りはない。北米全図で見れば大西洋までの道のりの9割がたを走ったのだから。

アメリカは一言でいうと「広大だが違和感のない国」だった。
確かに国土はとてつもなく広く、あらゆる寸法が大きい。狭い日本から見ればうらやましい限りだ。しかし、旅人として、意外と生活しやすかったことも事実だ。
スーパーマーケットで手に入るものは日本と変わらない。見慣れた食料品が並び、コメも500グラムや1キログラム入りの日本米が買えた。食堂を探せば、一番目に付くのがマクドナルドだ。コーラを入れる紙コップがアメリカサイズだという違いはあるが、おなじみのカウンターで注文すれば、ハンバーガーにありつけるという安心感が大きい。ケンタッキーフライドチキンやデニーズもあるし、スターバックスもある。日本の産業や文化の多くがアメリカから輸入されてきたのだと、強く感じさせられた。

葉子の足回り。愛用したルート66ソックス。
 
◇費用
今回の旅でかかった費用(二人分)の内訳は
交通費(航空運賃含む)  31.5万円
宿泊費  44.5万円
食費  25.1万円
雑費  7.5万円
合計  109万円
宿泊費の平均は5600円となる。
テント泊は9泊。宿泊まりは71泊。

◇宿泊について
今回の旅では、宿が見つからない事も考えられるので、テント、シュラフを携行したが、「宿がある場合は、そこに泊まる」ことを原則とした。
・宿 泊まったのはほとんどがモーテル。大都会は別としてアメリカではモーテルが当たり前の宿泊施設だ。平屋が多く、泊まる部屋の前に車を置くことができる。夕食はついていない。朝食はドーナツとコーヒーなど簡単なものを出すところもある。
値段は一番安かったのがニューメキシコ州のグランツで泊まった22.5ドル、一番高かったのは103ドル(ワシントン)だった。但し、22.5ドルでも、ちゃんとシャワーとトイレが設備されている。

・キャンプ場 7泊。民間のキャンプ場チェーン「KOA」と州立公園内のキャンプ場に泊まった。値段は民間が18〜26ドル。公営の場合が12〜17ドル(テント使用、二人)。
キャンプ場の利用者は大半がキャンピングカーだ。大型バスの大きさのキャンピングカーは一軒の家が移動しているようなものだ。反対にテントを使う客は極めて少ない。 どのキャンプ場もトイレ、シャワーはしっかり設備されているが、食料が売られていることは少ないので、キャンプ場に入る前に調達しておく必要がある。

・野宿 2回。一度目はモハベ砂漠の中。前後に町やモーテルは無く、その日、走り始めるときから野宿を覚悟していた。道中、人家も無く、水を入手できる当てがないので、5リットルの水と食料を朝から自転車に積んで走った。夕方になり、ひなびたルート66の道沿いに続く潅木の荒地に自転車を入れ、道路から見えないところにテントを張った。
もう一度はアルバカーキの西90キロの小さな集落。夕方に寄ったガソリンスタンドで、テントを張ってもいいよといわれ、建物の横に張らせてもらった。このときは、その店で水を買うことが出来た。

◇食事 3食とも自炊することが多かった。そのほうが行動を制限されないからだ。
夕食はモーテル、キャンプを問わず、スーパーマーケットで食材を入手し、自分たちで調理していた。主なメニューはビーフステーキ、ハンバーグステーキを筆頭に、ソーセージ、スモークポーク、ベーコン等の野菜炒め、サーモンムニエルなど。肉類が安く手に入るのはお国柄だ。持参した小さなフライパンが役に立った。主食にはお米のスープかパスタを作った。
コンロはロサンゼルスでキャンプ用のガスコンロを購入した。日本で普及しているタイプのガスコンロはほとんど見かけない。アメリカで入手容易なガスコンロは内容量16.4オンス(464グラム) のコールマンのプロパンボンベを使うもの。旅行中にこれを11本消費した。一週間に1本のペース。火口も、ボンベも重いのが難点だ。

ワシントンのバイクレーン
 
◇パンク
全部で18回もパンクした。そのうち厚のパンクが17回。走行4日に一度の割合でパンクしたことになる。これほどパンクが多発したことは過去に経験がない。
パンクの原因はそのほとんどが自動車タイヤに使われているステンレスワイヤーの切れはしが刺さったことによるもの。空気漏れがわずかのため直ぐに抜けることはなく、翌朝、出発するときにぺちゃんこになっていて気がつくことが多かった。道路上には、バーストして、中のワイヤが飛び出しているタイヤがよく転がっている。ロングトレーラーのようにタイヤ数が多いトラックでは、タイヤがパンクしても気がつかずに走り続けることが多く、結果的にバーストさせてしまうのだろう。
一方、葉子のパンクはたった1回だった。彼女のタイヤはスペシャライズドのニンバスというもの。明らかに有意差がある。アメリカの道路事情に適応させたタイヤというべきか。

ワシントンのロッククリーク公園。
人とサイクリストのための道。
 
何度も読んで直してくれた葉子に感謝し、連載を終ります。